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家康の警戒心を招いた黒田長政の「怜悧冷徹」さ

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第13回

■長政の怜悧冷徹な行動

 

 長政は一貫して、御家存続のために情に流されずに怜悧冷徹に決断しています。例えば、秀吉の不興を買っていた城井鎮房(きいしげふさ)を中津城にて謀殺し、人質の娘を含めて全て処刑し、見せしめとします。

 

 秀吉の死後には、徳川家との紐帯を強めるために、正妻であった蜂須賀正勝(はちすかまさかつ)の次女糸姫(いとひめ)を離縁し、家康の養女栄姫(えいひめ)を迎え入れます。蜂須賀家とは孝高の時代から関係性が深かったのですが、その繋がりをあっさりと捨てているのです。

 

 自身の信仰についても、伴天連追放令(ばてれんついほうれい)が出ると、あっさりと棄教し江戸時代には徹底したキリシタン弾圧を行います。

 

 関ヶ原の戦いにおいては、吉川広家(きっかわひろいえ)や毛利家重臣に対して本領安堵を餌に調略しますが、最終的に毛利家はその約束を反故にされ減封されています。その際も、家康の意向を申し渡すだけのような対応に留めています。

 

 重臣の後藤又兵衛への徹底した奉公構のように、長政は他者に対する怜悧冷徹な逸話が多く残されています。この辺りに同じ豊臣譜代でありながら家康に重用された藤堂高虎との違いが見られます。

 

長政と藤堂高虎との違い

 

 関ヶ原の戦いで家康から功績を高く評価された豊臣譜代には、藤堂高虎や福島正則(ふくしままさのり)、細川忠興(ほそかわただおき)などがいます。その中でも家康から特に厚い信頼を受けたのが藤堂高虎です。

 

 高虎は関ヶ原の後、徳川家の先鋒となるように大阪に近い伊賀・伊勢を任されます。これは井伊家と並ぶ徳川譜代のような扱いです。その後も高虎は外様でありながらも、家康の側近のように仕えるようになります。

 

 功績を認められた正則は安芸備後(あきびんご)に、小早川秀秋(こばやかわひであき)は筑前(ちくぜん)から備前へと上方に近い場所へ移封されます。忠興は要衝の地でもある豊前へ配置されます。長政と忠興は、元々仲がよくなかったとも言われている事からも意図的な配置だと思われます。

 

 そして、家康や幕府からの信頼の有無は大坂の陣においても顕著に表れます。

 

 高虎は大坂冬の陣に参加できますが、長政は江戸で留守居を命じられます。また交友関係も調査され、起請文を何度も提出させられています。長政の怜悧冷徹さを踏まえると、豊臣家への恩義という感情だけで幕府に弓を引くことはありえないはずです。

 

 ここでも長政と高虎の扱いに違いが出ています。

 

信任されやすいのは愚直な人間

 

 長政は幕府設立における貢献度の割には、重要なポジションに着くことはありませんでした。家康の側近となった高虎には、旧主の秀保が死去した際に高野山へ登って隠居するなど、長政とは異なる愚直さがあります。

 

 これがもし愚直さを示すための高虎流のパフォーマンスだとしても、高虎は自身の経験上から人の心の機微を知っていたとも取れます。

 

 黒田家は孝高の時代から蜂須賀家や毛利一門との関係が深く、その関係性を大事にするような愚直な行動を取っていれば、家康や幕府の黒田家を見る目も違っていたかもしれません。

 

 現代でも、組織で出世するのは怜悧冷徹に仕事をこなす人間よりも、組織のために愚直に取り組むタイプが多かったりします。経営陣や上司からの信頼を得るのは仕事ができる事ではなかったりします。

 

 長政の遺言に「我々は今の地位に甘んじているが、自分たち父子の活躍のおかげで徳川家が天下を取れたのだ」と書かれていると言われています。

 

 これは黒田家取り潰しの危機の際への対処方法を示しているとされていますが、長政の嘆きを含んでいるようにも見えます。

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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