「二条城」の築城に家康が旧材を再利用した理由
学び直す「家康」⑮
■六重天守を擁した徳川の天下を示す城

東大手門と二の丸御殿。二条城を代表する建造物である東大手門(上)は寛文2年完成。後陽成天皇はここから入城した。二の丸御殿(右)は6棟からなり、江戸初期の書院造りの代表的建造物として知られている。現在、世界遺産に指定されている。
慶長8年、伏見城で征夷大将軍補任の宣旨を受けた家康は、竣工したばかりの二条城から参内し、将軍拝賀の礼をおこなった。さらに、朝廷からの勅使を迎え、将軍宣下の賀儀(がぎ)が済むと、親王、公家衆、諸門跡が表敬訪問、祝いを表している。ここに二条城は、将軍家の都での儀式典礼の舞台となり、名実ともに幕府の「政(まつりごと)」の城となったのである。
家康の築いた二条城は、後水尾(ごみずのお)天皇の行幸を迎えるために、寛永元年(1624)から大改修が実施され、その姿かたちが大きく変わってしまった。2009年、二条城内での発掘調査により、家康の二条城が従来からの見解通り、現在の城の東半分にあったことがほぼ確実となった。
家康が築いた二条城の姿かたちは、『洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)』(林原美術館所蔵など)に描かれたものが有名で、城は方形の単郭(たんかく)という極めて単純な構造をし、周囲を石垣と水堀が取り囲んでいた。
大手は巨大な櫓門(やぐらもん)で、御所との位置関係により、東側堀川に面していた。櫓門は北側と西側にも見える。北門からは、西に土塀が延び三重櫓に接続、その西側(北西隅)にひと際目立つ端正な姿をした六重天守(実際は五重)が描かれ、その東側に小天守、周囲は多門櫓(たもんやぐら)が取り囲む姿となっている。
発掘調査で確認された石垣の石材は古く、破却された聚楽第(じゅらくだい)の旧材の再利用によったと思われる。また、天守も新築ではなく、大和郡山(やまとこおりやま)城(奈良県大和郡山市)から移設したものだ。
家康は、1日でも早く城を完成させるためにリサイクルした可能性が高い。あるいは意図的に豊臣政権のシンボルであった聚楽第と大和郡山城の部材を用いて、政権継承を訴えようとしたのかもしれない。
屏風に描かれた天守は、白漆喰で塗込められてはいるが、柱を見せる真壁造(しんかべづくり)で、屋根は瓦葺き、軒瓦に金箔は見られず、黒漆で塗ってあったかのような印象を受ける。
二、三、四重目屋根に入母屋破風(いりもやはふ)があることから、本来は巨大な二重櫓の上に、三階建ての望楼部(ぼうろうぶ)を載せた姿が想定される。初重に出で窓まどと軒唐破風(のきからはふ)、最上階にも軒唐破風が見られ、派手な意匠であった。天守は、西北隅に位置しているが、ここが城内で最も御所に近い位置になるため、内裏を意識した配置と考えざるを得ない。
外郭ラインは、白亜の多聞櫓が囲い込み構えを厳重とし、内側は格式の高い築地塀(ついじべい)であった。秀吉の聚楽第と比較して豪華さでは劣るものの、質実剛健な武家政権の象徴として完成を見た。人々は、秀吉に替わる天下人が誕生したことを実感したと思われる。
監修・文/加藤理文