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家康期の江戸城はなぜ「白亜の天守」だったのか?

学び直す「家康」⑪

■大坂城を凌駕する城郭の築城が開始

江戸城天守跡
修復された天守台が、皇居東御苑にある。天守は3回築かれており、3代目は天守台を含めた高さが59mだった。現代の15階建てビルに相当する。

 慶長8年(1603)、将軍宣下を受けた徳川家康は、一大名徳川氏の居城から、将軍の城とするための築城工事を開始した。

 

 最初の工事は、神田山(かんだやま)を切り崩し、日比谷入江(ひびやいりえ)を埋め立て、前島(まえじま)を堀割して道三堀(どうさんぼり)や平川(ひらかわ)へと接続させる工事で、70家の大名に手伝普請を命じている。翌年から諸大名に工事を分担させる天下普請によって工事が本格化し、加藤清正(かとうきよまさ)・福島正則(ふくしままさのり)らの西国外様28家に石垣用の石材調達が命じられた。

 

 石材の多くは、伊豆半島および相模湾沿岸地域から運び込まれた。将軍の城とする以上、豊臣大坂城を凌駕(りょうが)する総石垣の城とする必要があり、石垣普請に手馴れた諸大名に白羽の矢が立ったことはいうまでもない。

 

 本丸工事は、同11年より始まり、縄張は築城の名手で、家康の信任が厚い藤堂高虎(とうどうたかとら)があたった。

 

 翌年から、伊達政宗(だてまさむね)・蒲生秀行(がもうひでゆき)らの関東・奥羽・信越方面の大名も加わり、急ピッチで工事は進むことになる。まず本丸御殿が完成し、2代将軍・秀忠が移り住んだ。この年中に天守を含めた本丸主要部が完成し、将軍の城の基本的体裁が整ったのである。

 

 この時に建てられた家康創建の天守を伝える資料はほとんど残されていない。同時期に建てられた徳川二条城や伏見城、名古屋城天守などから類似点を探して推定するしかないが、『見聞軍妙(けんもんぐんみょう)』には「天守は、雲に届くように高く、鉛製の瓦が葺かれているため、まるで雪山のように真っ白い姿である」と書かれている。

 

 また、『慶長見聞集(けいちょうけんもんしゅう)』にも「夏でも屋根に雪が積もっているように見えて驚かされる」と記録され、その外観が白亜の白漆喰総塗籠(しろしっくいそうぬりこめ)で、屋根瓦は鉛瓦を使用、全体が白く輝く姿であったことがほぼ確実な状況だ。

 

 将軍の天守は、信長・秀吉が好んだ漆黒(しっこく)に金箔が燦然(さんぜん)と輝く天守とは、正反対の姿かたちで、まさに対照的であった。

 

 信長が安土城を造って以降、天守はシンボルとして、政権を代表する広告塔としての機能を持っていた。したがって、白亜にしたのは豊臣氏から徳川氏へと政権が交代したことを、ひと目見て分かるようにするためであった。当然、その規模は豊臣大坂城を遥かに超える高さで、当時全国最大の天守となった。

 

 なお、天守の位置は現在よりかなり南に位置していたとされている。

 

 慶長16年になると西丸の工事が開始され、城の西から北にかけて整備。さらに同19年に、外郭石垣工事を実施し、これにより現在の本丸・二の丸・三の丸・西の丸・北の丸・西の丸下まで城域が拡張され、巨大な城域を持つ「将軍の城」となったのである。

 

監修・文/加藤理文

(『歴史人』2022年8月号「徳川家康 天下人への決断」より

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