なぜ今、家康なのか?【前編】
学び直したい「家康」①
武田家滅亡からだいぶたってからのことであるが、家康が駿府から江戸に向かったとき、興津(おきつ)の清見寺(せいけんじ/静岡市清水区)の門前を通りかかったところで手紙を書く用事を思い出し、寺で紙と硯(すずり)などを借りた。
そのとき、紙・硯を持参した小坊主の立ち居振るまいがしっかりしているのをみた家康が、住職に、「あの小坊主は誰かしかるべき人の子か」と尋ねたところ、「武田勝頼の重臣だった土屋惣蔵昌恒(つちやそうぞうまさつね)の子です」との答えだった。
びっくりした家康は、「それは忠臣の子だ。われにくれよ」といい、秀忠に預けたということが『徳川実紀』にみえる。この土屋惣蔵昌恒は、武田勝頼が天目山麓田野(てんもくざんろくたの)の戦いで敗れ、最後、自害するときまでつき従っていた一人だったのである。家康が「忠臣の子は忠臣になる」と考えていたことがうかがわれるエピソードである。
なお、天正18年(1590)、豊臣軍の一員として小田原攻めに加わり、北条家滅亡後、関東に入った家康は、今度も、北条遺臣をとりこんでいる。
つまり、徳川家臣団は、三河譜代・今川遺臣・武田遺臣・北条遺臣の集合体だったのである。
その家康の家臣登用に関わる人材観も家康の魅力の一つではないかと考えている。これも『徳川実紀』にみえるが、家康の言葉として次のように記されている。
人の善悪を察するに、やゝもすれば己が好みにひかれ、わがよしと思う方をよしと見るものなり。人には其(その)長所のあれば、己が心を捨て、たゞ人の長所をとれと仰られし事もあり。
一般的に、家臣として人材を抜擢するとき、自分好みの者を採用する傾向があるが、家康はそれを戒めていたことがわかる。「何がその人の長所なのかをみきわめろ」といっているわけで、まさに、適材適所の人事配置をしていたことになり、これは家康の人間的魅力といってよい。
家康の人材観に関してついでにもう一つ。これは『常山(じょうざん)紀談』という逸話集に載っている話なので、信憑性の点では『徳川実紀』に劣るが興味深いエピソードがある。
あるとき、太田某という侍が秀忠に家臣として採用されるため謁見したところ、秀忠から「五百石を与える」という折紙を与えられた途端、太田某はそれをつき返し、そのまま席を立ってしまったという。秀忠が怒ったことはいうまでもない。将軍を将軍とも思わない太田某の態度に腹を立て、「死罪にしてくれん」と、ものすごい剣幕であったが、そこに同席していた井上正就(まさなり)が、秀忠の怒りをなだめるとともに、「このことを駿府の大御所家康様に報告し、その上で処置をお決めになった方がよろしいのでは」と忠告している。
そして、井上正就がそのことを駿府の家康に報告すると、家康は、
太田は誠に無礼なり。凡(およそ)、賞罰中(あた)らざれば、下の恨むるは常の事にて、太田も無礼とは知りたらん。己が身をすてゝ諫いさむる心なるべし。臣下の直言して諫むる者、怒りに逢ひて処罰せられ、家を亡ぼし、大軍の中にかけ入る者は、多くは身を全うして功名を立つる故に、昔より諫臣を忠の第一とす。然るに今、太田にあたふる禄、賞に中(あた)らざるや。
といったという。主君が気に入らない意見を、我が身を賭けて具申する家臣の重要性を理解していた家康は、「これは、太田某の諫言(かんげん)だ」と看破していたことになる。「昔より諫臣を忠の第一とす」は、家康の信条だったと思われる。なお、『常山紀談』によると、このあと、家康は井上正就に、「太田には三千石を与えよ」といったという。
(後編は1月11日水曜日に配信)
監修・文/小和田哲男
- 1
- 2