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北条氏の陰謀説も囁かれる「阿野時元の挙兵」

頼朝亡き後の謀反・抗争を巡る謎⑫


12月5日(日)放送の『鎌倉殿の13人』第46回「将軍になった女」では、執権・北条義時(ほうじょうよしとき/小栗旬)と、後鳥羽上皇(ごとばじょうこう/尾上松也)との駆け引きが描かれた。次期鎌倉殿をめぐる、血なまぐさい争いを収めるべく尼御台(あまみだい)・北条政子(ほうじょうまさこ/小池栄子)は、ついに立ち上がった。


静岡県沼津市にある大泉寺に建つ阿野全成と、その子・時元の墓。大泉寺は全成による開基で、かつて阿野氏の居館があった場所に建てられている。

 源実朝(みなもとのさねとも)が暗殺され、武家の頂点である鎌倉殿が空位となった。実衣(みい/宮澤エマ)は自身の子である阿野時元(あのときもと/森優作)を次の鎌倉殿に就任させるため、三浦義村(みうらよしむら/山本耕史)を巻き込んで計画を進める。時元は初代鎌倉殿・源頼朝(みなもとのよりとも)の異母弟である阿野全成(あのぜんじょう)の息子で、源氏嫡流の中で最後の男子だ。

 

 ところが義村は執権・北条義時と裏で手を結んでおり、実衣の動きはすべて筒抜けであった。義時はこれを謀反として鎮圧を命じる。

 

 事態は即座に収束し、時元は自害。実衣は捕縛された。謀反の咎で牢に閉じ込められた実衣は、処分を待つ身となった。義時は死罪を求めたが、一族は反対する。

 

 息子を失い、自暴自棄になる妹の実衣にかつての自身の姿を重ねた北条政子は、御所の外に出て、人々の暮らしぶりに触れる。貧しい民を励まそうと出掛けた政子だったが、逆に励まされることになり、希望を見出していた。

 

 一方、実朝の死により延期されていた親王の下向をめぐって膠着していた朝廷と幕府の関係は、慈円(じえん/山寺宏一)の働きかけにより、後鳥羽上皇の子である親王ではなく、頼朝の遠縁である三寅(みとら/越田一央織)を送ることで落ち着いた。

 

 摂関家の流れにあり、なおかつ源氏の血筋とあって、朝幕ともに妥当な着地点となった。ただ、その年齡は2歳とことのほか幼い。

 

 そこで政子は、元服するまでの三寅の後見として自身が鎌倉殿の代わりとなることを宣言。尼将軍・北条政子が誕生した。

 

 絶大な権力を手にした政子はさっそく、牢に閉じ込められていた実衣を放免し、救い出したのだった。

 

源氏の嫡流がほぼ全滅となった阿野時元の死

 

 鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡(あづまかがみ)』によれば、阿野時元の挙兵が発覚したのは承久元年(1219211日。実朝暗殺から10数日後のことで、時元は山中に砦を築いて立てこもった。

 

 時元の謀反が鎌倉にもたらされた際、北条政子の部屋にカラスが舞い込んだという。カラスは不吉なしるしとされており、ドラマの中でもカラスの鳴き声が効果音として使用されている。

 

 兵を挙げる根拠として、時元は朝廷から「東国管領(とうごくかんれい)」の宣旨を賜ったという。これは東国を支配する大義名分になるが、この時期に朝廷がそのような宣旨を時元に下すとは考えにくい。兵を募るための偽宣旨だったとみる向きは少なくない。

 

 いずれにせよ、時元のもとに兵が集まることはほとんどなく、挙兵からわずか10日ほどで鎮圧された。

 

 時元の挙兵を謀反だったとするのは『吾妻鏡』だが、一方で、政子の命による鎌倉軍に攻め込まれたため、やむなく抗戦のために兵を挙げたとする研究者もいる。

 

 さて、公暁(こうぎょう)による実朝暗殺は、幕府にとって非常な痛恨事となった。源頼朝から3代続く源氏将軍が断絶することになったからだ。それと同時に、政子・義時体制は、源氏嫡流の将軍就任に対する執念を最大限に警戒することになった。つまり、源氏の血筋にある時元は、幕府にとって最も危険な人物だったことになる。

 

 時元が挙兵した理由は今以て推測の域を出ていない。そもそも時元は、父の阿野全成が幕府によって粛清された後、駿河(するが)国阿野荘(現在の静岡県沼津市)で隠棲していた。祖父の北条時政(ときまさ)やおばの北条政子の助命嘆願により、連座を免れて命拾いしていた人物である。

 

 もはや数少ない源氏嫡流の男子であり、実朝が死去した後、黙っていても次期将軍として名前が挙がっていてもおかしくない立場。それがわざわざ挙兵という賭けに打って出るだろうか、という疑問が残る。

 

 ドラマの中で実衣として描かれる阿波局(あわのつぼね)が政子を追い落とし、幕府内での主導権を握ろうとしていた、とする説もある。時元が将軍になれば、その母である阿波局は政子と同等か、それ以上の地位に躍り出ることになるからだ。

 

 政子・義時は、こうした謀反の芽を摘むために、源氏嫡流を排除しようとしていた。後鳥羽上皇から迎える親王将軍を傀儡として幕府の実権を握るのが、北条氏、ひいては政子らの狙いだったからだ。つまり、時元の謀反は北条氏による陰謀で、時元にとっては濡れ衣だった可能性も否定できない。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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