毛利方を苦しめた秀吉の三木城・鳥取城攻め
戦国武将の領土変遷史㉔
播磨の別所氏が毛利方に寝返る

鳥取城跡にある吉川経家像。経家は石見吉川氏で石見大田の福光城(不言城)石見銀山の管理も任された吉川経安の嫡男。鳥取城主・山名豊国を追い出した家臣に迎えられるが、秀吉の兵糧攻めにあい自害してしまう。
永禄9年(1566)、毛利元就(もうりもとなり)の手により、尼子(あまご)氏は滅亡に追い込まれた。しかし、尼子家再興を目指す山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)などの遺臣がおり、再興に向けて尽力することになる。鹿介らが担いだのは、尼子誠久(まさひさ)の遺児・勝久(かつひさ)であった。鹿介ら尼子再興軍は毛利方と戦いを繰り広げるが、何れも失敗に終わる。彼らが頼ったのが、畿内を中心に勢力を拡大させていた織田信長(おだのぶなが)だった。
天正5年(1577)、織田家重臣・羽柴秀吉(はしばひでよし)は播磨国に入り、11月には毛利方の上月(こうづき)城(兵庫県佐用郡)を陥落させた。そこに入ったのが、勝久ら尼子の人々であった。
播磨攻略は順調に進むかと思われたが天正6年、三木城(兵庫県三木市)の別所(べっしょ)氏が毛利方に寝返り事態は急変。秀吉は三木城攻めに注力する。その隙をついて毛利氏・宇喜多(うきた)氏の大軍が上月城に迫る。孤立無援となった城は落城。尼子勝久は切腹、山中鹿介は斬殺された。
三木の別所氏が寝返ったのは、信長と対立し、京都を追放され、毛利氏のもとに身を寄せていた足利義昭(あしかがよしあき)の誘いがあったからと言われている(義昭は備後国の鞆[とも]にいた)。
秀吉による三木城攻めは、天正6年3月から始まるが、この戦いは「三木の干殺(ひごろ)し」とも言われ、秀吉軍による兵糧攻めが、籠城する別所方に大きな打撃を与えた。
さらに、秀吉は三木城の周辺に付城を築いた。付城は、敵城を攻める時に、それと相対して築く城のことであるが、秀吉軍はこの付城を数多く設置したのだ。その数は60にも及んだという。このように多くの付城を築かれたら、別所氏は兵糧の搬入に苦労する。別所長治(べっしょながはる)は、毛利氏に兵糧を運んでくれるよう要請。毛利氏もこれに応え、三木城に兵糧を運ぼうとした。
しかし、これは秀吉の予想するところであり、すでに搬入ルートには付城(つけしろ)が築かれていた。毛利氏による兵糧搬入はその後上手くいかず、三木城は見捨てられた形となった。
城の食糧は枯渇し、兵士は糠や馬の餌(飼葉)を食べていたが、それも無くなり、鶏・牛・馬・犬に手を出す。動物も尽きると、人肉を食らう事となった。その餓死者は数千人と伝わる。城は追い詰められ、別所長治は切腹。天正8年、城兵の命と引き換えに別所一族は命を絶った。
だが、城兵の生命は助からなかったようだ。開城後は、秀吉軍により、悉(ことごと)く首を刎(は)ねられたとする説が濃厚である。第一次上月合戦(1577)の時も秀吉軍は開城後、城兵の首を悉く刎ねている。そればかりか非戦闘員である女・子供を200人ばかり串刺し・磔(はりつけ)にして国境に並べるという残虐行為に及んでいる。
鳥取城も三木城と同じ包囲戦に
三木城を攻略した秀吉は、因幡国の攻略に力を入れる。鳥取城攻めに乗り出したのである(城主は毛利方の吉川経家/つねいえ)。
そして、この鳥取城も兵糧攻めに晒(さら)されることになる。秀吉はまたしても、城の周辺に付城を築いた。また、米を高値で買い占め、城に兵糧が搬入されないようにもしたという。城には多くの農民も逃げ込んだというから、兵糧の消費に拍車がかかっただろう。
城兵は、飢えてくると、木や草の葉をむしり、食料とした。餓鬼のように痩せた城内の男女が、柵に近付き、命乞いする様も見られたという。重傷を負った兵士は、格好の「食料」となった。倒れている兵士に向かい、刃物を手にした人々が殺到。三木城と同じような現象が鳥取城でも起こった。
兵糧攻めというと人命を尊重する秀吉が行った良い戦法のようなイメージもあるかもしれないが誤解であることが、一連の戦いから分かるであろう。
天正9年10月、城主・吉川経家は、城兵の命を助けることを条件に切腹。毛利氏の勢力は一段と後退することになった。
監修・文/濱田浩一郎