【北条・武田・上杉】関東三国志の始まり
戦国武将の領土変遷史⑦
氏綱、小弓公方を追討し関東管領職に任ぜられる
天文5年3月、今川氏輝(うじてる)が死去したことをうけて、今川氏で内乱が展開し、氏輝の弟義元(よしもと)が家督を継いだ。同6年に義元は武田信虎と同盟し、これに反発した北条氏綱は駿河に侵攻、駿河東部の河東地域を占領した。また同年、小弓公方足利義明に敵対した。房総では天文2年以来、小弓公方勢力で内乱が展開していて、それに介入したことによる。
また、扇谷上杉氏との抗争は、同5年から扇谷上杉領国に侵攻するようになり、同6年にその本拠河越城(埼玉県川越市)の攻略を遂げた。一方で小弓公方足利義明は、古河公方領国への侵攻を本格化させた。
同7年、氏綱は扇谷上杉方の下総葛西(かさい)領を攻略し、下総にも領国を広げた。足利義明が再び古河公方領国への進軍を展開すると、古河公方足利晴氏は氏綱に義明追討を命じ、これをうけた氏綱は10月、下総国府台(こうのだい)合戦で足利義明を滅ぼした。これにより小弓公方足利氏は滅亡し、古河公方足利氏が唯一の関東公方家として確立した。
氏綱はその功績により、晴氏から関東管領職に任じられ、関東政界で公方に次ぐ政治的地位を確立させた。さらに同9年、娘を晴氏の正妻とし、古河公方家の外戚の地位を確立させた。これにより、古河公方足利氏と北条氏による新たな政治秩序が生み出された。
長尾為景は天文7年、主家上杉定実(さだざね)の後継者として出羽伊達稙宗(たねむね)の子時宗丸を迎えることにしたが、これに越後北部の国衆が反発し、内乱が生じた。同9年に時宗丸の上杉氏入嗣が実現をみる段階になって、伊達家で内乱が生じたため頓挫する結果となった。
それをうけて為景は隠居し、嫡男晴景が当主になった。同時に主家上杉定実の政治的影響力が再び強まっていった。また武田信虎は、同9年4月から信濃への侵攻を開始した。
関東に新世代が台頭し、氏康・信玄・謙信が家督を継ぐ
天文10年6月、武田氏でクーデターが発生し、信虎は駿河に退隠され、嫡男晴信(はるのぶ/法名信玄/しんげん)家督を継いだ。また、同年7月、北条氏綱が死去し、嫡男氏康が家督を継いだ。信玄は、同11年に諏方(すわ)氏を滅ぼし、諏訪郡を経略した。以後、信玄は信濃経略を本格的に展開した。氏康は同12年から上総真里谷(まりや)武田氏の内乱に介入し、安房里見氏と抗争するようになる。また同13年から山内・扇谷両上杉氏との抗争を本格化させた。
同14年7月、今川義元は氏康に和睦を要請した。しかし氏康は拒否したため、義元は同盟者の信玄とともに、河東(かとう)に侵攻し、氏康も駿河に向けて出陣、両軍は河東で対陣した。
そうしたなか、9月、山内上杉憲政・扇谷上杉朝定(ともさだ)は足利晴氏を擁して北条方の河越城を攻囲した。氏康は河東と河越の両面作戦を回避するため、前年に和睦を結んでいた信玄の仲介で、義元と和睦を成立させ、11月に河東を義元に割譲して退陣した。
同15年3月、氏康は扇谷上杉方の武蔵岩付太田氏を従属させ、4月、河越城救援のため出陣。山内上杉憲政が攻撃してきたため、これを迎撃、攻囲軍を撃退した。扇谷上杉朝定は戦死し、扇谷上杉氏はここに滅亡した。氏康は、古河公方足利晴氏と関東管領山内上杉憲政に軍事的に勝利し、以後は旧扇谷上杉領国の経略、山内上杉氏領国への侵攻を本格化させた。
一方、越後では長尾晴景(はるかげ)のもと、内乱が続き、同13年、晴景の弟景虎(かげとら/上杉謙信)が登場した。やがて晴景との間で対立が生じ、同17年12月、主家上杉定実の仲裁により、晴景は隠居し、景虎が家督を相続した。
監修・文/黒田基樹
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