いろはの「いの字」とかけて「船頭さんの手」ととく、その心は「ろの上にある」〜上方の船のお噺〜
桂紗綾の歴史・寄席あつめ 第19回
昔も今も乗り物は人々の生活になくてはならないもの。ここではそんな乗り物にまつわる落語の話を紹介。語ってくれたのは大阪・朝日放送のアナウンサーでありながら、社会人落語家としても活動する桂紗綾さん。伝統芸能にも精通する彼女ならではの語りをどうぞ!
■江戸時代から京と大坂を結んだ“三十石舟”に揺られて

江戸時代の道頓堀
江戸時代も繁華街として栄えた道頓堀。描かれた川には多くの舟が行き交っている。(『摂津名所図会』国立国会図書館蔵)
江戸時代、庶民の交通手段は徒歩、お金がかけられる場合は〝駕籠かき〟(駕籠を担いで人を運ぶ人)を利用しました。そして、何よりも便利で大阪の人に人気があった乗り物が〝船〟です。当時、大阪の市中を流れる大小何本もの川には多くの橋がかけられました。そのため〝江戸の八百八町〟〝京都の八百八寺〟と合わせて〝大阪の八百八橋〟と異名が取られたのです。(実際には江戸の方が橋の数は多いが、大阪は土地面積に対して橋の数が圧倒的だったため) 水の都・大阪には、その水運を使って、食糧を中心に様々な物資が全国から集まりました。そこから〝天下の台所〟と呼ばれるようになります。船は大阪の経済・文化の発展に欠かせないものでした。
最盛期の淀川には千艘以上の船が行き交ったと言います。その証拠に上方落語には題名に船の字が付く落語が非常に多いのです。例えば『遊山船』『船弁慶』『鯉船』『小倉船』『兵庫船』『矢橋船』『宇治の柴舟』等、他にも噺の中に船が登場するのは『三十石 夢の通い路』『野崎詣り』『百年目』『皿屋敷』『たちぎれ線香』等、挙げればキリがありません。
また、京都・大阪間の移動には30人程が乗り合う三十石舟(さんじっこくぶね/米三十石が積載可能だったことから命名)が運航されました。京都・伏見から大阪・八軒家までの下りは川の流れに乗って六時間で到着しましたが、大阪・八軒家から京都・伏見までは反対に川を遡上するので12時間もかかります。上りは岸から綱を人力で引くという大変な重労働でした。

江戸時代に描かれた三十石舟
徳川の時代に、淀川で結ばれていた伏見・大阪間の交通機関として旅客専用の船“三十石船”が登場したとされる。(『京都名所之内 淀川』国立国会図書館蔵)

今も京都で運航する三十石舟。
こちらも船が出てくる噺で『胴乱の幸助』という上方落語があります。堅物のおやっさん・幸助さんはお茶屋遊びや芝居には全く関心がなく、唯一の趣味が喧嘩の仲裁。おやっさんが歩いていると、稽古屋の前に人だかりが出来ていて、浄瑠璃の『お半長(おはんちょう)』を語る稽古風景を見ています。
『お半長』とは本題は『桂川連理柵(かつらがわれんりのしがらみ)』で、京都は柳馬場押小路(やなぎのばんばおしこうじ)にあった帯屋の主人・長右衛門と信濃屋の娘・お半が不貞を働き心中する物語。二人の名前から、通称『お半長』となりました。たまたまおやっさんが通りかかる際に耳にしたのが、帯屋の姑が嫁のお絹をいじめる場面。姑「親じゃわいな!」嫁・お絹「ちぇ、あんまりじゃわいな」と一人の人間が声色を変えて語っているだけなのに、「誰かが揉めている!」と勘違いしたおやっさんは勢い込んで中に入り訳を聞く。稽古屋の師匠が『お半長』のあらすじを説明すると、自分がこの揉め事を仲裁すると言って、鼻息荒く京都に向かいます。ところが石炭の臭いが嫌いだからと、列車ではなく、三十石の夜船に乗って京都へ。柳馬場押小路に行ってみると、実際に一軒帯屋があるので突撃するも、番頭とは全く話が嚙み合わない。「長右衛門を出せ」「お絹を出せ」とすごむおやっさんに、番頭は「もしかしてそれ『お半長』と違いますか?」と尋ねると、おやっさんは「白状したな!」とどや顔。番頭は大阪から来た男が意味不明なことで怒鳴り込んできたかと思えば、何と浄瑠璃の物語を現実の事件と勘違いしていることに気付く。あまりにおかしくて笑い転げます。おやっさんに「お半も長右衛門もとっくに心中してしまいましたがな」と告げると、「え!?もう心中してしもた!?やっぱり汽車で来た方が良かった」と悔しがるというオチ。

人力車が発明されて間もないころの東京の様子。多くの人力車が街を行き交い、珍しがって用もないのに乗る試しの客がいたという。(『東京日本橋風景』国立国会図書館蔵)
近代化を進める明治時代初期には人力車が登場、明治九年には大阪~京都に鉄道が開通します。多い時では一日9000人もの移動を担った三十石舟でしたが、川の上でも主力は次第に蒸気外輪船に取って代わられます。鉄道と三十石舟が共存していることから、この噺は明治10年代頃の噺であることがわかります。今は観光用の船が道頓堀川等、大阪市内の川を運航しています。上方の噺家が観光案内する船もあり、大阪の人だけでなく他府県から来られる方も楽しんで乗船されています。大阪の富を生み、人々の往来を助けた川は今日も変わらず静かに流れるだけです。