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時政らの野望を政子・義時が阻止した「牧の方事件」【前編】

鎌倉殿の「大粛清」劇⑭

争点は武蔵国の実効支配。強引に行われた畠山一族の誅滅

 

 平賀義信は先祖を同じくするだけでなく、平治の乱に際して父義朝に供奉(ぐぶ)した過去もあるため、源頼朝は義信を信任して、その妻を嫡男頼家の乳母の一人にするとともに、義信を武蔵守に補任した。

 

 頼朝の死後も源氏一門筆頭の地位は揺るがず、建仁3年(1203)10月8日に行われた源実朝の元服に際しても、北条時政の理髪(童髪から成人の髪に結うこと)に対し、義信も花冠(かかん/成人の徴として冠を被せること)という、非常に名誉な役目を任された。

 

 義信はおそらくこの儀式からほどなく他界し、時政と牧の方の女婿である次男朝雅が家督と武蔵守の官職を継いだ。

 

 武蔵国は将軍の知行国であったから、政所別当の北条時政にも管理の責任と権限があり、職掌を楯にして北条氏の勢力を武蔵国内に広げるよい機会でもあった。国司の平賀朝雅と二人三脚で歩めば、難しくないはずが、武蔵国を本拠地とする畠山重忠の存在は目の上のたん瘤(こぶ)だった。

 

 元久2年(1205)6月下旬に起きた畠山重忠・重保父子の誅滅について、『吾妻鏡』は事の発端を、洛中の酒席で起きた平賀朝雅と畠山重保との口論に帰する。

 

 腹の虫の収まらない朝雅が牧の方に畠山一族が謀反を企てていると讒言。これを真に受けた牧の方が北条時政をたきつけ、畠山重忠・重保父子を誅殺させた。最初は反対した義時と時房もついには従うが、事を実行する中で偽りに気づき、時政への報告がてら、後悔の念を吐露したというのだが、かなり苦しい説明と言わざるをえない。畠山一族誅滅の理由はもちろん、北条義時の存在感を際立たせようという作為の痕跡がありありと見て取れる。

 

 政子も義時も畠山一族の誅滅自体には反対ではなかったが、いざ実行すると、追討に動員された御家人たちの誰もが冤罪であることを悟り、罪悪感に苛(さいな)まれるとともに、北条一族に不信の目を向け始めた。

 

 このままではまずい。危機感を募らせた点は時政・牧の方、政子・義時ともいっしょだが、両者の対応はくっきりと分かれた。

 

 実朝の抹殺と平賀朝雅の擁立という、強行突破での難局打開を目論む時政・牧の方に対し、政子・義時は御家人たちからの信頼回復を優先させ、まずは三浦義村の武力を借り、畠山重忠の誘い出し役を務めた稲毛重成(時政・牧の方の女婿)とその一族を誅滅させた。

 

発覚した実朝暗殺の陰謀、政子と義時は父を見限る

 

 政子・義時にしてみればこれは、時政・牧の方とは距離を置いたことを示すパフォーマンスであると同時に、両者への強い警告でもあった。

 

 同調者を増やそうとすればするほど、情報漏れの危険も増す。当事者の一人が洛中にいるならばなおさらで、『吾妻鏡』によれば、源実朝を殺め、平賀朝雅を将軍に擁立という風聞があったのは、元久2年(1205)閏7月19日のこと。政子が行動に出たのも同日で、政子は長沼宗政、結城朝光、三浦義村、同胤義、天野政景らを遣わして実朝を迎え、義時邸に避難させた。

 

 味方になるはずだった御家人がすべて仮の御所となった義時邸の守衛へと走ってしまったため、時政は同日深夜に出家して、翌日の午前中、伊豆国の北条郡へ向け出立したという。

 

 勝ち目のないことを悟り素直に引退・隠居したというのだが、慈円の『愚管抄』を見ると、少し様相が異なる。

 

 それによれば、陰謀を耳にした政子はひどく慌て、すぐさま三浦義村を呼び寄せ、助力を求めた。知略に長けた義村は実朝の身柄を義時邸に移した後、郎等を招集して陣を張り、「将軍の仰せであるぞ」と言って、鎌倉にいた時政を呼び出して故郷の伊豆国に送ったという。

 

 時政は三浦義村により、引退・隠居を強制されたように読み取れる。『吾妻鏡』と『愚管抄』の記述に相違があるとき、それが北条氏に直接関係する内容であれば、やはり忖度(そんたく)のない『愚管抄』に軍配を挙げざるをえず、時政は源頼家と同様の形で退場を強いられたのだろう。

 

 この一件でさらに注目すべきは、三浦義村の果たした役割である。陰謀の風聞自体は閏7月19日以前からありながら、政子の耳に入ったのが同日か、確証を得られたのが同日ということか。

 

 どちらにせよ、義時の手勢に召集をかければ、時政の耳にも情報が届き、対抗手段を取られかねず、時政の不意を衝(つ)くには速戦即決に出るしかない。当時の鎌倉において、その日のうちに百人単位の兵を招集できる御家人は、三浦半島に本拠地を有する三浦義村しかいなかった。政子が一番に義村を呼び寄せたのは的確な判断で、勝敗はその時点で決していたと言ってもよい。

 

 なお、同じく時政・牧の方の女婿というので、御家人の宇都宮頼綱にも謀反の疑いがかけられたが、頼綱は出家により身の潔白を訴えた。

 

 頼綱と離縁した妻の方はその後、上級貴族の藤原国通に再嫁。牧の方は時政の死後、この娘を頼って上洛。何不自由のない余生を送ったという。

弁財天から神託を受ける時政
伝説では北条時政が江ノ島で弁財天から神託を受けた際、弁財天のいた場所に3つの鱗が落ちており、それにちなんで3つの鱗を北条家の家紋としたという。国立国会図書館蔵

監修・文/島崎晋

『歴史人』20227月号「源頼朝亡き後の北条義時と13人の御家人」より

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