忠義と道理に生きた“へいくゎい者”石田三成
「偉人の失敗」から見る日本史⑮
忠義には厚いが「横柄な人柄」と評される

龍潭寺(りょうたんじ・滋賀県彦根市)にある石田三成像。境内には三成の供養碑がある。
失敗のケーススタディ
◆裏切りが続出、西軍をまとめきれなかった理由とは?
◆関ヶ原合戦に豊臣秀頼を参加させられなかったのはなぜ?
◆必勝の西軍関ヶ原の布陣はなぜ機能しなかったのか?
慶長3年(1598)8月、太閤秀吉が62歳で没すると天下は俄(にわか)に騒がしくなった。我が子・秀頼(ひでより)の将来のみを案じて死んだ秀吉が、最も警戒していた徳川家康が早くも動き始めた。それにいち早く反応したのが、石田三成(いしだみつなり)だった。
三成は、幼名・佐吉(さきち)といい永禄3年(1560)近江国坂田郷石田村(滋賀県長浜市)で誕生した。15歳で秀吉と出会い、その頭脳明晰・冷静沈着を買われて家臣団に組み込まれた。同じ時期に、ほぼ同年代の福島正則(ふくしままさのり)・加藤清正(かとうきよまさ)なども召し抱えられている。
だが、後に「武功派」と呼ばれる福島らに対し、三成は秀吉軍の兵站(へいたん/軍需品・食糧・馬の供給)など主に裏方を担当し、秀吉政権が定まる頃には、内政(現在でいえば総務・人事・経理など)に力を注いだ。同じ秀吉への忠誠でも、武功派とはその質・量が異なった。出発点から、三成は武功派とはまったく別の道をたどったのだった。
武功を「利」という物差しで測り、納得できなければ離合集散を繰り返すことが当たり前の戦国時代。三成には「恩顧」「忠義」という、幼年時に身に付けた書物(四書五経/ししょごきょう等)の影響が強くあった。これが秀吉没後、三成の行動原理になっていく。
三成は、「へいくゎい者(横柄な人柄)」といわれた。ある意味で、他人が馬鹿に見えて仕方がなかった。それが顔にも表れた。こうした性格が、武功派ばかりでなく豊臣旧臣からも嫌われたという。「おまえには人望がない」と、友人の大谷吉継(おおたによしつぐ)からも指摘されるほどであった。それでいながら、島左近(しまさこん)を家臣の筆頭に抱えたように、人を見抜く目には確かなものがあった。
家康の「野心」「野望」とは相容れない「義」の持ち主であったことも、三成の性格・生き方であった。
一方で、戦国時代とはそうした時代ではないことを知りながら、見て見ぬ振りができない不器用な人物でもあった。
慶長5年9月、関ヶ原合戦である。家康率いる軍勢を「東軍」、三成率いる軍勢を「西軍」と便宜的に呼ぶ。戦上手な家康には豊臣旧臣から武功派(福島・加藤・黒田ら)が参戦している。それまで三成には戦場での「武功」がほとんどなく、指揮官としての能力も「未知」のままである。三成にとって第1の失敗であったろう。戦術・戦略に優れ、大軍を統率できる指揮官を据えなかった失敗である。こうした不安から西軍には裏切りが続出した。
第2の失敗は、家康の調略を防げなかったことにある。これは、三成が西軍の武将たちをつなぎ止める魅力に乏しかったということになろう。
決戦の地・関ヶ原は、実は三成にとっては故郷に近いホームグラウンドともいえた。土地勘のある三成は、ここに東軍を誘(おび)き寄せて叩くつもりであった。実際に地の利は西軍に遙かに有利であった。200余年後に陸軍大学校の講師として訪日したドイツの軍人・メッケルは、関ヶ原の布陣図を見て「西軍の勝利」を指摘した。だが東軍勝利を知って「実戦開始までの情報収集や調略の大事さ」を指摘したという。
後世の軍事専門家に勝利を指摘されるほどの「必勝の布陣」を敷きながら三成は決戦に敗れた。何故か。それは、西軍に属した武将たちを信頼しすぎて裏切られたことと、「大義」の旗印である豊臣秀頼を決戦場に迎えられなかったことにある。
秀頼の母親・淀君(よどぎみ)の反対があったとしても「これが豊臣家、ひいては秀頼様の将来のために家康を除く必要がある」ことを訴えて、秀頼の出陣を実現させるべきであった。もっとも、秀頼の傍らには豊臣の譜代大名・片桐且元(かたぎりかつもと)がいて、決して大坂城から出さないという態勢を固めていた。三成には、且元をさえ説得できなかったという失敗も加わった。
もし、秀頼が関ヶ原に出陣していたら、という「イフ」を考える時、三成にとって最大の失敗はこの1点に尽きる。
そして、関ヶ原合戦は、西軍・小早川秀秋(こばやかわひであき)の裏切りが引き金になり、その前面にいた三成の盟友・大谷吉継が敗死。裏切りが続出した西軍は崩壊し、戦いは半日で決着した。
監修・文/江宮隆之
(『歴史人』2021年9月号「しくじりの日本史」より)