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一粒の米、一発の弾丸もなく、餓えや疲労と戦った「地獄のインパールの戦い」

最悪の陸戦・インパールの戦い 最終回


強力な敵が待ち構える中、わずか20日分の食糧と進撃速度ばかりを重視した軽装備しか持たない軍が飛び込んでいく。これは近代戦とは言い難い暴挙であった。そして雨季の到来とともに、部隊は崩壊の道を辿った。


緒戦は物資を満載したトラックが隊列を組み、勇ましく進軍していた。しかしこうした部隊はごく一部で、ほとんどが歩兵中心であった。日本陸軍はとにかく機械化が遅れていたため、多くを人力に頼っていたのである。

 1944年3月に発動された日本軍の「ウ号作戦」において、第15軍の3個師団はビルマとインドの国境を越え、インド北東部への進攻を開始した。

 

 第33(弓)師団は8日に南から進撃。第15(祭)師団は15日に北からインパールを目指した。そして第31(烈)師団はインパールの約130km北に位置するナガ丘陵のコヒマに向かって軍を進めていた。

 

 第33弓師団で輸送任務に当たっていた山本正一郎さんは、山本募(つのる)少将に率いられた別働隊「山本支隊」に配され、タムから国境を越え飛行場のあるパレルを目指して進撃した。正面には第20インド師団が立ちはだかっていた。両軍は激しい戦闘を繰り返したが、日本軍はじわじわと西へ進んだ。第33師団の主力はさらに南のティディムに進出し、第17インド師団を包囲・殲滅しようとした。

 

 第15祭師団は4月上旬にはカングラトンビおよびヌンシグムに到達した。ヌンシグムはインパールまでわずか10kmに位置する町である。そして第31烈師団はウクルルを経てコヒマを目指し、4月5日にはこれを占領した。

 

 順調に推移する緒戦に気を良くした第15軍司令官・牟田口廉也(むたぐちれんや)中将は、各部隊に「天長節(てんちょうせつ/昭和天皇の誕生日=4月29日)までにインパールを落とすように」と、念を押す。すべての師団が作戦を開始してからわずか1カ月半だが、それを超えると雨季がやってきてしまうことを、牟田口も承知はしていたのだ。

 

 それに日本軍は、携行食糧を20日分しか用意していなかった。牟田口が食糧にしようと考えた牛や山羊などは、作戦開始早々に川に流されたり山を越えられず四散(しさん)したりしてしまった。最初から満足な食糧もなく、ごく短期間で敵を駆逐しろという、およそ現実味のない作戦であったのだ。それでも各師団は懸命に働き、予想以上の善戦を展開した。

 

 だが各戦線で戦闘が一進一退を繰り返していた時、日本軍が恐れていた事態がやって来た。雨季の到来である。例年では雨が降り出すのは5月に入ってからがほとんどだが、この年は4月の半ばから雨が降り出した。ビルマとインドの国境地帯は、世界でも指折りの豪雨地帯だ。雨季になると戦闘どころではなくなるうえに、補給もままならない。ただでさえ日本側は補給が皆無なのである。

 

重砲などは分解して人力で運ぶ。当然、携行できる糧食が減らされる。それでも雨季に入る前は、何とか踏ん張ることができたのだが、豪雨で泥田のようになった山道では、足をとられ進めなくなる。そこを狙い撃ちにされた。

 

 一方、鉄道により物資が集まるディマプルとインパールを結ぶ街道の屈曲点にあるコヒマを第31師団に占領された英印軍は、通常ならばインパールへの補給が滞り窮地に追いやられるはずであった。だが連合軍側は航空機による補給を行っていたので、インパールの守備軍は食糧や弾薬が欠乏することはなかったのだ。加えて制空権を抑えている利点を生かし、空から強力な反撃にでてきた。

 

 ひとたび雨が降り出すと、インド東北部に横たわるアラカン山系では、道なのか川なのかの区別もつかなくなった。何しろ年間降水量が9,000mmにも達するのだ。日本の梅雨などとは比べ物にならない。そんな中、山本さんが乗ったトラックは、泥田のようになった山道でスタックし、そこに飛来したスピットファイアの銃撃により大破した。そのとき、銃弾の破片が山本さんの背中に当たった。

 

 幸い致命的な傷ではなかったが、一時後方に下がることとなった。山本さんにとって、これは真の不幸中の幸いであった。同じ輸送部隊に所属していた戦友たちは、トラックを失うとともにほとんどが一兵士となり、最前線でバタバタと斃(たお)れていったのである。

 

 その間、インパール攻略予定日の4月29日を過ぎ5月に入っても、日本の前線部隊には1粒の米も1発の弾薬も届かなかった。こうして極度の餓えに襲われた日本兵は、体力の著しい低下もあり、次々にマラリアに感染した。もはや英印軍と戦うのではなく、餓死や病死という別の敵と相対していたのだ。

 

 傷が大分癒(い)えた6月初旬、山本さんは部隊へ復帰となったが、その頃はすでにすべての戦線が崩壊していた。そのため山本さんは、今度はインド側からビルマ国境を目指して歩くはめになった。食べるものなどなく、春菊のような見た目の草ばかり口にしていた。

 

「だから春菊は嫌いだ」と、よく孫の陽一さんに語っていたらしい。撤退時、道端には夥(おびただ)しい数の遺体が転がっていたという。その半分以上が白骨化していたが、ボロボロの軍服から、日本兵であると知れた。これは白骨街道と揶揄され、戦後になるとインパール作戦の代名詞となった、悲惨な光景なのだ。

 

 功名心に囚われた将軍と、世論を鼓舞するために勝利を渇望した大本営。インパール作戦に投入された兵力は約8万6000人、そのうち帰還できたのはわずか1万2000人である。死者の大半は餓えと病だったと言われている。

 

内地で発行されていた写真雑誌には、日本軍がインパールを目指し、インドに怒涛の進撃を開始したという、勇ましい記事が掲載されている。大本営ではこの作戦の成功により、太平洋方面の劣勢を払拭する期待を抱いた。

 

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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