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「インパールに向かって進撃せよ!」このひと言で日本軍の“地獄への門”が開かれた

最悪の陸戦・インパールの戦い 第7回


1944年のビルマ戦線において、多くの不安、反対の声を押し切って、日本軍のビルマからインドのインパール攻略を目指す大作戦が発動された。緒戦こそ順調に思われたが、背後の北ビルマには敵の空挺部隊が侵攻してきた。開始早々、暗雲が立ち込めていたのだ。


日本軍に向かって圧倒的な物量で対抗してきた連合軍のグルカ兵。アメリカのM3中戦車など、兵器に関しても圧倒的に優位であった。これに対して日本軍側は、速やかな移動を重視した軽装備(乙装備)であった

 1944年2月の段階になると、インパール作戦における奇跡的な勝利を期待しているのは、第15軍司令官の牟田口廉也(むたぐちれんや)中将だけではなくなっていた。中部太平洋の戦況が悪化したことで、大本営でもこの作戦の勝利を渇望する声が大きくなっていたのだ。さらにインドを武力により解放することが出来ると、インドの独立運動家・チャンドラ・ボースも多大な期待を寄せていた。

 

 そして3月8日、補給や増援もまともに行われないまま、第15軍隷下の3個師団(第15、第31、第33師団)を主力とする日本軍は、インパール攻略を目標とする作戦を開始。この日はまず、弓師団と命名された第33師団(柳田元三中将/やなぎたげんぞう)がひと足先にチンドウィン河を渡った。そしてチン山地の英印軍を撃破し、南からインパールを目指したのである。烈第31師団(佐藤幸徳中将/さとうこうとく)はインパール北方のコヒマに進出し、後方を遮断。そして祭第15師団(山内正文中将/やまうちまさふみ)は、インパールを東北から攻撃する段取りとなっていた。烈と祭、両師団がチンドウィン河を渡るのは、弓師団の作戦開始から7日後の3月15日である。

 

 自動車大隊に所属し、ビルマ国内でトラックによる輸送任務に就いていた山本正一郎さんは、作戦が開始されると弓第33師団に属し、作戦開始地点へと移動していた。この間、輸送部隊の上空を守る友軍機の姿を見ることはなかった。それどころか作戦開始直前の3月5日20時、グライダーを2機ずつ曳航(えいこう)した61機のダグラスC47輸送機が、インドのアッサム州ハイラカンディ飛行場を発進。

 

 この強力な連合軍空挺部隊は、北ビルマのミートキーナ(ミッチーナ)とマンダレーの中間あたりの地カータに降下した。翌6日にも大型輸送機とグライダーで兵員、多数の砲、武器弾薬、燃料、機材、糧食が運ばれ、7日には早くも滑走路が出現。日本軍の占領地であるはずの北ビルマの一画に、戦闘機が上空を守る強力な英軍陣地が出来上がったのだ。

 

 このような見過ごせない状況に危機感を抱いたビルマ方面唯一の航空部隊である第五飛行師団、通称高師団の師団長・田副登(たぞえのぼる)中将が牟田口軍司令官に、インパール作戦の延期・見直しを具申(ぐしん)している。だが牟田口は「こちらがインパールを抑えれば、空挺部隊ごときは自然と立ち枯れる」と一蹴。

 

 また、弓師団長の柳田中将も、作戦開始前から再三、牟田口軍司令官に作戦中止を具申し続けていた。この空挺部隊の来襲を目の当たりにすると、すぐさま反転して北ビルマの敵を掃討することを訴えた。だがこの意見も、牟田口の不機嫌なひと言で却下される。

 

 だが後にこの空挺部隊の存在が、日本軍全般に恐るべき結果を招くこととなる。

 

 インパールへの進撃は、背後に敵を抱えた状態の中で始まった。作戦開始当初、日本軍は順調に進撃を続けた。だがこれは連合軍側が、鉄壁の防衛体制を敷いていたインパールへ日本軍を誘い込む罠だったのだ。

 

 背後を脅かされただけでなく、補給不足を補う手段として牟田口が考案した、牛や山羊などに荷を運ばせ、必要に応じて食糧にする「ジンギスカン作戦」が、作戦開始早々に瓦解する。チンドウィン河を渡る際、半数が流されてしまったのだ。

 

 残った家畜も、ジャングルや急峻な地形によりほとんどが脱落し、兵士が食べる前に失われてしまう。さらに悪いことに家畜の列は敵機から格好の標的となり、爆撃を受けたため、荷物を持ったまま逃げた家畜も少なくない。ただでさえ糧食や弾薬が不足していたのに、敵と戦う前に深刻な状況に陥ったのだ。

 

 山本さんが所属していた輜重(しちよう)部隊も、直接敵と相対することはめったになかったが、危険は常に隣り合わせていた。何しろ敵はインドだけでなく、北ビルマにも展開し、輸送部隊などは格好の空爆目標となった。とは言え友軍部隊は作戦開始早々に物資不足に陥っている。各師団は相次いで第15軍司令部に、補給を求める電文を送り続けてくる。

 

 そのため山本さんらのトラック部隊は、緊急輸送に駆り出されたのである。だが制空権はほとんど連合軍側が抑えていたので、日中の移動は自殺行為だ。ある日、ビルマ側からインド国境を越え、インパール盆地の端に位置するパレル要塞付近までの緊急輸送を命じられた。

 

 当然、移動は敵の空襲が止む夜間に行われたのである。僅かな光に調光されたヘッドライトだけを頼りにして、密林を疾走する。筆舌に尽くし難い睡魔と戦うため、ナイフで太ももを突きながら運転を続けた。

 

1943年5月に撮影された第15軍の首脳と幕僚の集合写真。前列の左から右へ第33師団長柳田元三中将、第18師団長田中新一中将、第15軍司令官牟田口廉也中将、第55師団長松山祐三中将、第31師団長佐藤幸徳中将

 

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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