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ビルマやインド洋で連戦連勝の日本軍はインド国境を越えたのか?

最悪の陸戦・インパールの戦い 第2回


対英米蘭の戦いに突入する際に、大本営が考えた戦略は「まずは英国を屈服させること」であった。そのために不可欠だったのが、当時のイギリスがアジアに築いていた富と力の象徴、インドを攻略することであった。


日本軍の空襲を避けるため、泊地のトリンコマリーから洋上に退避していた空母ハーミーズ。空襲が終了し、トリンコマリーに戻ろうとしたが日本側に発見され、空母艦載機による攻撃を受けて撃沈する。

 緒戦の快進撃に意を強くした日本陸軍の目は、ビルマよりもさらに西方へと向けられていく。インパール作戦が開始される2年前の1942年夏の段階で、ビルマから国境を越えてインド北東部に進軍。英印軍を駆逐してインパールを含む主要拠点を制圧する、という作戦が検討されたのである。南方軍はこれを「二十一号作戦」と名付け、東京の大本営に報告した。大本営も戦争の早期終結につながる事を期待し、作戦準備を命じている。

 

 開戦前の19411115日、大本営政府連絡会議が「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」を決定。それによると「日本は開戦後、速やかに極東における米英蘭の根拠を覆滅(ふくめつ)。自存自衛を確立し(略)、独伊と提携してまず英国の屈服を図る」とある。

 

 要するにアメリカに対して軍事的勝利を収めるのは難しい。そこで先にイギリスを屈服させ、アメリカの世論が厭戦(えんせん)ムードに染まり、講話のテーブルにつくように導こうと考えていた模様だ。だが日本単独で、イギリスに勝利するのも現実的ではない。だから独伊、とくにドイツとの連携に期待を寄せていた。

 

 一応、日独伊三国は1942年1月18日に軍事協定を結び、英領インド西部を通る東経70度を境に西側を独伊、東側の戦域は日本が受け持つこととした。だがドイツもイタリアもせいぜい中近東あたりまでしか眼中になく、ドイツはむしろ日本軍にソ連を攻撃して欲しいと要請してきたぐらいだった。枢軸国側の思惑は、最初からバラバラであったのだ。

 

 日本はこの時、外交面からもドイツとの共同歩調を模索している。インドおよびアラビア人がイギリスからの独立運動に邁進するならば、日独伊三国は可能な限り援助する、という宣言を世界に発信しようと持ちかけたのである。だが、この「日独伊三国共同宣言」の案は、ヒトラーの反対で沙汰止みとなってしまう。その理由は、必要以上にイギリスを刺激する事を懸念したのである。結局、軍事のみならず外交方針でも、日本とドイツは違う方向を見ていたのであった。

 

 それでもイギリスを早期に屈服させたい日本は、自力でその道を切り拓くしかないと悟る。そこでまず、海軍がインドに向かう作戦を立案した。それはインド洋に浮かぶ要衝・セイロン島(現スリランカ)攻略作戦である。

 

 真珠湾攻撃に成功し、マレー沖海戦では英東洋艦隊の新鋭艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスを撃沈したことで、この作戦が浮上したと思われる。実際、連合艦隊参謀長の宇垣纒(うがきまとめ)少将は19411230日付の日記で、将来保有すべき軍事要点のひとつに、セイロン島を挙げているのだ。1942年2月には、戦艦大和艦上で図上演習も行われた。

 

 しかしセイロン島攻略作戦は同年3月になると、軍令部からストップがかかる。陸軍の同意が得られなかったのがその理由だ。だが海軍側は、別の作戦も用意していた。「C作戦」と呼ばれた、インド洋機動作戦だ。

 

 マレー沖海戦で新鋭戦艦2隻を失い、さらにシンガポールも陥落させられた英東洋艦隊は、新たな根拠地をセイロン島のコロンボ軍港に置いた。新司令官のサー・ジェイムス・ソマービル大将は、セイロン島のトリンコマリーとモルジブ諸島のアッズ環礁を、新たな基地に加え陣容を整えた。英艦隊に残された主な兵力は空母3、戦艦5、重巡5である。

 

 C作戦というのは、連合艦隊の主力をインド洋に向かわせ、セイロン島の英艦隊を撃破しようというものだ。島の占領が含まれていない、言わば最初の案をダウンサイズさせた作戦である。参加したのは空母6隻をはじめとする、連合艦隊の主力であった。

 

 南雲忠一(なぐもちゅういち)中将率いる空母機動部隊は真珠湾攻撃の後、ウェーキ島、ラバウル、ポートダーウィン、ジャワ島などの陸上基地攻撃に駆り出されていた。そして1942年4月1日が、セイロン島攻撃日とされた。イギリス軍は暗号を解読し、4月1日は艦隊を洋上に待機させ、日本艦隊を待ち構えていた。ところが別の敵が現れたため日本側の出撃が遅れ、待ち伏せは空振りに終わる。

 

 南雲艦隊は4月5日の早朝になってインド洋の予定海域に到着し、コロンボ空襲のため艦載機129機を発艦させた。しかし英国側の主力艦は、真珠湾の教訓から軍港外に退避していたので、こちらも空振りに終わる。

 

 だが日本側索敵機が洋上で重巡ドーセットシャーとコーンウォールを発見。南雲艦隊はコロンボ空襲後、危険な兵装転換を行い重巡攻撃に向かわせた。結果はわずか17分の攻撃で2隻を撃沈する。さらに日本軍は9日、トリンコマリー港北東海上で小型空母ハーミーズを発見。オーストラリア海軍の駆逐艦バンパイアとともにわずか15分で沈めてしまう。

 

 日本海軍の戦闘能力の高さに驚いたソマービル大将は、残った艦隊をインド西海岸のボンベイ(現ムンバイ)とアフリカマダガスカル島へ退避させてしまう。こうしてインド洋の制海権は日本のものとなった。

 

 まさに陸海とも、この時期のイギリス軍はボロ負けの状態であった。第15軍によるビルマ平定作戦も、1942年5月末になるとすべてが終了。この段階で日本軍がビルマ・インド国境を越えて進軍していれば、イギリス軍にはこれを迎撃するだけの力は、残されていなかったと見られている。

 

 そのような状況の時、二十一号作戦が検討されていたのだが、これは実行に移されることはなかった。果たしてそれは、いかなる理由からであったのだろうか?

 

陸上の戦闘が5月末で終了すると、ビルマではしばし平和な光景が見られるようになった。仏教寺院をパトロールする日本軍兵士たちからも、緊迫した様子は感じられない。

 

 

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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