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東条英樹は綻びを予測したが「動き出してしまった無謀なインド進行」

最悪の陸戦・インパールの戦い 第6回


劣勢に追い込まれつつある戦況を、一気に跳ね返すだけの作戦を成功させたい。大本営のそんな希望が現地の軍に伝播したのか。異を唱えた参謀長は即座に更迭されてしまい、インド進攻という無謀な作戦計画が動き出す。


日本軍において軽視されがちな輜重兵科を専門として陸軍大学校を卒業した数少ない兵站のスペシャリスト小畑少将。小畑はアラカン山系のジャングルを越えインパールに向かう作戦は無謀と即断し、牟田口の不興を買った。

 1943年3月18日、第15軍司令官に就任した牟田口廉也(むたぐちれんや)中将が考案した「武号作戦」は、第15軍がチンドウィン河を越えて進軍。支配が完全ではなかった西岸に上陸し、ビルマ防衛ラインを前進させる、というものであった。さらにインパールを経由して、アッサム地方までの侵攻も考えていた。

 

 だが同月に参謀長に就任していた小畑信良(おばたのぶよし)少将が、直前までウィンゲート旅団掃討作戦に従事していたことで、部隊の休養を優先するように進言。さらに兵站(へいたん)や支援部隊がチンドウィン河西岸に駐屯するのは難しいなどの理由を述べ、作戦決行に反対した。小畑少将は輜重兵科(しひょうへいか)として陸軍大学校を卒業した、数少ない兵站のスペシャリストだった。

 

 そんな人物が反対したのだから、この作戦案は自然消滅する。これが牟田口の怒りを買い、小畑は就任から2カ月も経たない5月下旬、罷免(ひめん)されたのである。そのうえでインド進攻作戦に固執していた牟田口は、緬甸(めんでん)方面軍司令官の河邊正三(かわべまさかず)中将に、作戦実行を強く進言した。これに対して河邊は、詳細な作戦計画の提出を求めた。計画書は作成に時間がかかるので、牟田口も落ち着くだろうと踏んだようだ。だが当の牟田口は、具体的な作戦計画の提出を求められたことで、認可されるものという確信を得てしまう。

 

 6月にはラングーン(現ヤンゴン)の司令部で兵棋演習が行われた。その結果、第15軍が山間部に進出すれば、英印軍は必ず反撃に出てくる。それよりは当初からインパール平地に進出して、敵の策源地を覆滅(ふくめつ)してしまったほうが効果的だという結論を得た。牟田口は、インドへの進攻の展望が開けたと解釈した。だが出席者の中には、この作戦構想には危険要素が多いと感じる者も少なくなかった。

 

 正式な記録は残されていないが、8月の初め頃に、大本営から南方軍にインド進攻作戦の準備に関する指示が下された。大本営の意図は、インド進攻を成功させることで、戦局全般の転換を図ろうというものである。そしてこの作戦は「ウ号作戦」と命名され、準備が指示されたのだ。

 

 明けて1944年1月上旬、大本営は「ウ号作戦」を正式に決定する段階まで至った。残りは首相兼陸相の東条英機(とうじょうひでき)の断を仰ぐだけとなった。軍務課長の西浦進(にしうらすすむ)大佐は、作戦決行を命じる参謀総長の指示案を携え首相官邸へ赴いた。東条は入浴中だったが至急の用件というので、西浦を脱衣所まで通した。扉越しに作戦について説明した西浦に対し、東条はすぐさま以下の6つの質問を発した。

 

■後方補給は大丈夫か

 

■牟田口の作戦構想は堅実性に欠けてはいないか

 

■劣勢な航空兵力で敵の空地協力作戦に対して成算はあるのか

 

■インパール平野に進出した後、さらに兵力が必要となることはないか

 

■防衛線をインド領内まで推進した結果、ビルマ一般の防衛が不利にならないか

 

■南部ビルマ海上から敵が攻撃してきた場合、対応策はできているのか

 

 西浦はすぐに参謀本部に電話を入れ、作戦参謀に東条の質問を照会する。すぐに「御心配無用」という答えが返ってきた。それを聞いた東条は、書類に捺印してしまう。実際は6つの懸念はすべて「要心配事項」であったのだが、この瞬間、後世にもっとも無謀な陸戦と呼ばれる「インパール作戦(ウ号作戦)」の実施が決定したのである。

 

 ビルマ国内でトラックによる輸送任務に従事していた山本正一郎さんが、次期態勢移行のための作戦に参加したのは、194310月1日のことであった。それからはマンダレーを中心に武器や兵員の輸送任務に当たった。敵と対峙する最前線ではなかったが、この頃から頻繁に空襲が行われるようになり、日中の輸送任務は命がけとなってきた。とくに1944年になると、イギリス空軍の戦闘爆撃型ハリケーンMk.Cによる橋や駅といったインフラ施設への爆撃や、輸送中のトラックへの機銃掃射が激しさを増していた。

 

イギリスのホーカー・エアクラフト社が開発した戦闘機ハリケーンは、ビルマの日本軍に対して執拗な攻撃を繰り返してきた。橋を攻撃し、日本軍の進撃を阻止しようとしている戦闘爆撃機型ハリケーンMk.ⅡC。

 

 2月のある日、山本さんはラングーンに到着した御下賜品とともに、若い将校たちをメイミョーの司令部に届ける任務に当たる。彼らは来るべき作戦に参加するために、内地から来た学徒動員の新米将校たちだ。広島の宇品港を11月下旬に出港。敵潜水艦の攻撃にも遭遇せず、無事にここまで到達した。

 

 街並みが夕陽に染められた頃、将校たちと下賜品を荷台に載せた2台のトラックと、武器弾薬を満載したトラックが3台、それに警備兵が乗るトラックという6台編成の輸送隊が、ラングーンを後にした。しばらくはアスファルトで舗装された道を、スピードを上げて走り抜ける。途中、鉄道や道路が三叉路となっているペグーという村で、トラックを整備するとともに日没を待った。

 

 それから夜道を休憩も入れず、ひたすら北上する。夜明けまであと2時間という頃、ヤメティンという村落に着く。そこには小さな兵站宿舎があったので、1時間ほど仮眠をとった後、早い朝食を済ませる。

 

 そこからマンダレーまでは3時間ほどだが、夜が明けたので極めて危険な状況となる。なにしろトラックのエンジン音で敵機が接近しても気づかないからだ。トラックの運転だけでなく、つねに上空を含めた周囲の状況に気を配り続けた。マンダレーはラングーン同様、ビルマを代表する都市だが、ここでは燃料の補給を済ませ、すぐに出発。さらに3時間ほどかけ、高原都市のメイミョーに到着する。

 

 交代しながらとはいえ24時間近く運転し、敵の攻撃に神経を尖らせての運搬任務のため、メイミョーの司令部に着いた時は、若い山本も疲労困憊であった。それでも2月の段階は、平和であったと後に思い知らされるのだった。

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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