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劣勢を挽回する起爆剤と期待された日本軍の“甦った”インド進攻作戦

最悪の陸戦・インパールの戦い 第5回


各戦線で日本軍の快進撃は影を潜め、守勢に立たされつつある時、戦局を好転するための起爆剤として、インドへの進攻作戦が再び俎上にあげられた。その作戦を熱心に実現させようとしたのが、牟田口廉也(むたぐちれんや)中将であった。


 

ビルマの河を渡るウィンゲート准将が組織したチンディット部隊。長距離浸透ゲリラ作戦を遂行するための部隊で、後方を攪乱された日本軍は大いに悩まされた。チンディットとはビルマの神話に登場する想像上の動物。

 

 1943年になると、アメリカ軍による本格的な反攻が始まり、太平洋戦線における日本軍はじりじりと後退せざるを得ない状況に追い込まれていった。5月29日にはアリューシャン列島のアッツ島守備隊が全滅し、「玉砕」という言葉が初めて公式に使われた(それ以前にも玉砕は記録されていたが、国民に発表されたのはアッツ島が初めて)。

 

 大陸の戦いも膠着状態が続き、戦局を好転させる展望を見出せずにいた。そんな中、大本営および南方軍が目をつけたのが、インドへの進攻作戦である。というのも近い将来、連合軍によるビルマへの反攻作戦が開始されることが予測されたからだ。攻められるくらいならこちらから攻め込み、それを足がかりとして戦局全般を好転させる。そんな思惑が働いたのであろう。それにはチャンドラ・ボースの登場以降、インド国民軍(INA)が再生し、活発化したのも後押しとなった。

 

 一方、ビルマ駐屯軍の指揮官の中にも、インドへの進攻を思い描くようになった人物がいた。第18師団長の牟田口廉也中将だ。牟田口は二十一号作戦が検討された1942年夏の段階では、補給に大きな制約が伴うため、インドへの進攻には異を唱えた。だが1943年2月、彼に変心をもたらす事態が勃発する。それはオード・ウィンゲート准将が率いた、特殊部隊による大規模な破壊工作であった。

 

 ビルマは日本よりも国土が広く、しかも海に面した一部を除き、他国と国境を接している。北の中国、西のインドは日本と敵対していたが、それでも日本側は防衛可能と見ていた。それはインドと接するビルマ辺境は、容易には越えられない厳しい自然によって守られている、と考えていたからだ。

 

 ところがウィンゲートに率いられた約3000の将兵が印緬(いんめん)国境を越え、落下傘降下によりビルマ北部に侵入。空輸による補給を受けながら日本軍の背後に回り、鉄道や橋など要衝の爆破などの攪乱活動を展開した。このウィンゲート旅団(別名チンディット)の活動に、日本軍は3カ月にわたり苦しめられた。この時、ウィンゲート旅団掃討の任に就いたのが、牟田口が師団長の第18師団なのである。

 

 ウィンゲート旅団の侵入は、日本軍のビルマ防衛に関する考え方を一変させた。それはビルマ辺境の自然はイギリス軍の侵入を防いではくれないことと、さらに大規模な反攻が行われるのではないかということを、強く意識するようになったのである。実際に敵と当たった牟田口は、とくに事態を重く見た。

 

 こうした最中の3月27日、日本側は防衛体制の刷新を図るため、南方軍に新たに「緬甸(ビルマ)方面軍」を設置。司令官には河邊正三(かわべまさかず)中将が充てられた。さらにその隷下となった第15軍の司令官には、飯田祥二郎(いいだしょうじろう)中将に代わり牟田口廉也中将が任命される。

 

 この河邉—牟田口というコンビは、1937年7月7日に起こった盧溝橋(ろこうきょう)事件の際、現場指揮官とその直属上官という関係であった。不拡大方針を無視して突っ走る牟田口と、それを黙認してしまった河邉。何やらビルマの地に、風雲急が告げられつつあった。

1943年3月に第15軍司令官に任じられた牟田口廉也。盧溝橋事件の際には支那駐屯歩兵第1連隊長で、現場で警備司令官代理という立場にあった。

 1943年2月28日、独立自動車第101大隊第3中隊に所属していた山本正一郎さんは、第15軍司令官の隷下を脱し、第5野戦輸送司令官の隷下となった。任務は前年から引き続き、物資が集まるラングーン(現ヤンゴン)と中部のマンダレー間を行き来し、占領地を確保するために必要な物資、並びに対空戦闘用の弾薬等のトラック輸送を行っていた。

 

 さらに同年4月1日になると、ビルマ防衛任務と次期作戦の準備、という任務に就いている。山本さんにとって、この期間が見知らぬ外国にやって来て、唯一落ち着いていられた時期だったようだ。だが10月1日に下された命は、「ウ号作戦」ならびに次期体制移行のための作戦に参加する、というものであった。この「ウ号作戦」というのが、いわゆるインパール作戦のことである。

 

 第15軍を率いることとなった牟田口は、すぐさま守勢中心の作戦を転換し、イギリス軍の反撃拠点と考えられていたインパールを攻略し、さらにアッサム州まで進攻する構想を抱いた。手始めに第15軍がチンドウィン河を越え、日本軍の支配が完全ではなかった西岸に上陸。ビルマ防衛ラインを前進させる「武号作戦」を立案した。

 

 この作戦を牟田口は1943年5月下旬に実施し、雨季が始まる前に英印軍を速攻で同地域から駆逐してしまおうと考えた。直後に雨季に入れば、相手は反撃に移ることが難しくなるからだ。しかしあまりに準備期間が短いうえ、ウィンゲート旅団掃討で消耗していたことから、実施は先送りとなった。

 

盧溝橋事件の時、牟田口の上官であった河邉正三。緬甸方面軍が置かれると、その司令官となった。このふたりのコンビが復活したことに、運命を感じる。

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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