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ビルマでの快進撃により南方軍はインド侵攻作戦を計画!

最悪の陸戦・インパールの戦い 第3回


インド国内にも築かれていた蒋介石への補給路(援蒋ルート)を攻略し、中国軍の弱体化を狙った南方軍。ビルマ攻略後、インド北東部への侵攻作戦を立案する。だがそれは、後のインパール作戦に劣らないほど無謀なものであった。


インドから険しい山を越え中国まで戦略物資を運ぶために拓かれた援蒋ルートのひとつレド公路。日本軍がビルマに侵攻した主目的は、ビルマからの援蒋ルートを抑えることだったが、インドからのルートも開拓されていた。

 

 独立自動車第101大隊第3中隊に所属していた山本正一郎さんは、1942年1月13日にタイのバンコクに上陸すると、すぐに輸送任務に従事することとなる。タイの内陸に位置するピッサヌロークやラヘーン、メーソートといった町と、ビルマ(現ミャンマー)の港町モールメン(現モーラミャイン)との間の輸送を担っていた。

 

 東京〜大阪間に匹敵する距離、しかも未舗装なうえに途中には山越えもあるような難路を、何度も往復しては戦略物資や兵士を送り届けていた。一応タイ国内は戦闘地帯ではなかったが、ビルマに入ればいつ砲弾が飛んで来るかわからない緊張状態が続く。そのうえ日本軍の進軍があまりにも早かったため、正一郎さんがハンドルを握っている時間も、日に日に長くなっていった。

 

 そして3月14日にはラングーン(現ヤンゴン)に異動した。それから6月10日まではラングーン、マンダレー、メイミョウ、さらにはエナンジョンへの軍需品、および兵員輸送に従事する。これは東京〜尾道、途中で鳥取に寄るような感覚だ。もちろん、高速道路などはない状況だ。この間、山本さんは寝具に横になった記憶がなかったという。先人たちの気力と根性、そして並々ならぬ責任感には本当に頭が下がる。

 

 だが、のちに山本さんが味わうことになる常軌を逸した戦場の往復と比べれば、そんな過酷な任務でもまだ平和に感じられたのだ。

 

 平定戦が5月末に終了すると、ビルマにはモンスーンによる雨季が到来。そのため大規模な軍事作戦を展開することは叶わず、ビルマとインド国境地帯は事実上休戦状態となった。その間、陸軍中枢では“その先”を考え、1942年8月にはインドへの侵攻を軸とした「二十一号作戦」が検討された。

 

 そこで南方軍総司令部が示した作戦計画は、カルカッタ方面に航空撃滅戦を実施。その間に地上部隊をもって東部アッサム州、およびチタゴン方面を奇襲攻略。航空基地を推進し、援蒋航空路を遮断する、というものだ。

 

 作戦開始時期は10月上旬から中旬で、第18師団と第33師団の一部を基幹とした部隊が担当することになっていた。対するイギリス軍の予想兵力は10個師団である。だがビルマでの戦いの経験から、日本軍はそれだけの戦力差は簡単に埋められると考えていた。

 

 だが兵力差以上に問題だったのが、その作戦地域の広大さであった。北部はインパールを攻略するだけでなく、シルグハートまで侵攻する。南部はビルマのアキャブ(現シットウェ)から国境を越え、現在はバングラデシュの都市となっているチッタゴンを攻略。さらにゾラワルガンまでを抑える、というもの。

 

 こう言われてもピンとくる人はまずいないであろう。防衛庁防衛研修所戦史室による『戦史叢書 ビルマ攻略作戦』には、これを日本国内に当てはめたものが記されている。それを要約すると「1個師団で名古屋(カレワ)を出発し、まず京都(インパール)を攻略。引き続き鳥取(シルグハート)を占領し、同地を確保。南部のアキャブからゾラワルガンまでの距離は、仙台と青森間に相当する」という内容なのだ。

 

 しかも作戦エリアには平地がほとんどなく、3000m級の山脈、切り立った崖、密林と大小の河川が行く手を阻む。文字通り道なき道を進軍することとなる。

 

 南方軍が提出した作戦計画案を見て、不安を抱いた者も少なからず存在した。参謀本部第二課長(作戦課長)の名で、南方軍に懸念が伝達されたのだ。この時の作戦課長は、服部卓四郎(はっとりたくしろう)大佐であった。服部は南方軍の参謀から計画の説明を受けたが、それでは十分に納得することができず、憂慮すべきいくつかの点を指摘している。それは

 

・持久戦になった場合の対応

 

・1943年に実施予定の重慶攻略作戦との兼ね合い

 

・独ソ戦や北アフリカ方面の枢軸国側の戦いの推移

 

・インド国内情勢と民衆の心情

 

 といった点である。

 

 さらに実際に戦う現地部隊からも、強硬な反対意見が噴出した。ビルマ攻略の立役者である第15軍司令官の飯田祥二郎(いいだしょうじろう)中将は、「この作戦は日本軍にとって非常な不利益である。(略)ビルマ作戦で獲得した有力な地位も消え失せる結果になりはせぬかと思われた」と、回想録で記している。

 

 実際に作戦に投入される予定であった第18師団の師団長は、この1年半後に第15軍司令官となり、インパール作戦を強行した牟田口廉也(むたぐちれんや)中将であった。この時の牟田口は「この案は、兵站(へいたん)道路の構築や補給体系の確立準備などから見て、あまりにも時間的余裕がなく実現の見込みはない」と、否定している。

 

 こうした意見に加え、ガダルカナルでの戦いが始まったこともあり、この作戦実施は保留となった。そう、あくまで保留なのである。

 

ソ連軍と戦ったノモンハン事件当時、関東軍作戦主任参謀であった服部卓四郎。太平洋戦争開戦時前の1941年7月に参謀本部作戦課長に就任。開戦時の陸軍の作戦の多くを立案した人物。最終階級は陸軍大佐。

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過去記事

野田 伊豆守のだ いずのかみ

 

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など多数。

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