混浴露天風呂が絶滅危機!? 江戸では当たり前だった混浴はいつから別浴に?
幕末~明治の偉人が生んだ制度・組織のはじまり⑥
「混浴が当たり前」。現代の男性にとっては夢のようなシチュエーションが江戸時代には当然の環境としてまかり通っていたという。江戸時代まで日常であった混浴の日常がいつごろから、どのような理由で消えていったのかをここでは探っていく。
■混浴露天風呂が絶滅危機

江戸時代、混浴は当たり前であり湯屋に男女のしきりはなかった。
ここ数年、何度かこのようなニュースが報道された。「絶滅危機」の原因は「ワニ族」と呼ばれる、のぞきや盗撮目的の迷惑客にある。
報道内容を総合すると、特定の露天風呂に特定の常習者が出没するのではなく、全国各地の混浴露天風呂、それもおそらく、水着着用不可の場所に不特定多数の不届き者が出没しているように見受けられる。迷惑な話である。
混浴露店温泉は海外にも多数存在するが、日本以外はすべて水着の着用が必須。全裸が原則なのは、世界の中でも日本だけ、男女別浴でも全裸が原則なのも同じく日本だけの習慣である。
日本だけ全裸なのは、入浴の起源が宗教的な儀礼を前にしての沐浴(もくよく)にあるからで、神に対して一切の隠し事をせず、誠心誠意であること示すに、局部を隠すのは不敬との考えに拠るのだろう。
入浴目的が衛生上の効果に特化されてからは、風紀の紊乱(びんらん)を防ぐためにも、男女別浴が推奨され始め、江戸時代には街中の風呂屋に対し、難度もお触れが出されている。
京阪では風呂屋、江戸では湯屋または銭湯と称されたが、男女を完全に隔離するには大改築が必要となり、実行できる風呂屋は全体の何割かに限られた。その他の風呂屋は役人に目をつむってもらうか、入り口と脱衣所だけ分け、湯舟はいっしょという部分的な隔離でお茶を濁すしかなかった。
不特定多数の異性に裸体を晒(さら)すことを、当時者たちはどう受け止めていたのか。羞恥心(しゅうちしん)はあったのかなかったのか。
日本の混浴文化については、幕末から明治初期に来日した西洋人の多くが、大きな驚きをもって記録に残している。たとえば、アメリカの初代駐日総領事を務めたタウンゼンド・ハリスはその著『日本滞在記』の中で、オランダ人通訳のヒュースケンから聞いた話として、次のように記す。
「ある時ヒュースケン君が温泉へゆき、真裸の男3人が湯槽に入っているのを見た。彼が見ていると、1人の14歳ぐらいの若い女が入ってきて、平気で着物を脱ぎ、〈まる裸〉となって、二十歳ぐらいの若い男の直ぐそばの湯の中に身を横たえた。このような男女の混浴は女性の貞操(ていそう)にとって危険ではないかと、私は副奉行に聞いてみた。彼は、往々そのようなこともあると答えた」(坂田精一訳・岩波文庫)

箱根の温泉の様子。旅先や温泉地でも混浴は当たり前。描かれている人物たちも男女が入り乱れているが、当然のような顔している。(国立国会図書館蔵)
またハリス自身の体験として、次のように記す。
「下田の谷地(やち)を初めて松崎の方へ上っていった。初めて温泉を訪れた。それは前に記したものと同じく、浴場として整備されている。しかし、湯の温度は前のものに比べてよほど高く、より強く硫黄分をふくんでいた。私は、子供をつれて湯に入っている一人の女を見た。彼女は少しの不安気もなく、微笑をうかべながら私に、いつも日本人がいう〈オハヨー〉を言った」(右同)
また、トロイア遺跡やミケーネ遺跡の発掘で有名なドイツ人シュリーマンは横浜での銭湯初体験を通じて、「裸に対して羞恥心がないこと」と「裸をさらすのが礼儀作法に触れるものではないということ」の2点には驚かされたと書き残しおり、他の西洋人の感想も大同小異である。

トロイの木馬の逸話でも世界中に知られるトロイア遺跡。シュリーマンは私財を使って3年もかけ発掘に成功し、世界にその名を轟かせた。
ただし、これはあくまで西洋人の主観なので、当の日本人に羞恥心が皆無であったかどうか、たとえ羞恥心がなかったとしても、それを当時の日本人全体に当てはめてよいのかは問題である。身分や地域による違い、さらには個人差の大きさも考えられるからだ。
ただ一つ確かなのは、明治政府が外聞を気にして、男女の別浴だけでなく、裸体のまま出歩く習慣を撲滅しようとしていたことである。
そのための第1弾は明治2年(1869)に発せられた「東京府内男女入れ込み湯厳禁」で、「入れ込み」とは混浴のことを言う。
続いて明治5年11月13日には総則5条、違式罪目23条、詿違(かいい)罪目25条の53条からなる「東京違式詿違条例」が施行される。「条例」は軽犯罪法令、「違式」は意図的に行われた犯罪、「詿違」は偶発的な犯罪を意味する言葉で、右の条例によれば、立小便や裸体での外出に加え、銭湯での男女混浴が罰金刑の対象となり、支払い能力がない者は拘留または鞭打ちとされた。

混浴が当たり前であったものの、痴漢が横行し江戸時代後期には混浴が禁止されることもあった。(日本文化研究センター蔵)
同年から翌年のうちに、大阪とその他の都市でも同様の条例が発せられた。読み書きのできない庶民のため、図解の告知も発せられたが、長年の習慣がそう簡単に改まるはずはなく、政府の意図した「文明化」の達成は明治時代には完成せず、大正、さらには昭和へと持ち越された。
街中の「文明化」は徹底される一方、ひなびた温泉地の露天風呂は一貫して対象外で、古き良き日本の名残と呼べるのだが、不心得者の跋扈によりそれが絶滅の危機に瀕しているとは、何とも哀しむべきことである。