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曹操の娘・曹節は、なぜ伝国璽を使者に投げ付けたのか?

ここからはじめる! 三国志入門 第43回


紀元前206年、中国大陸に劉邦がつくった漢(かん)。前漢・後漢あわせて400年近くも続いた長い王朝であったが、それが滅びたのが西暦220年。そのラスト・エンペラーとなったのが献帝(けんてい)である。彼の苦悩に満ちた生涯と、妻・曹節(そうせつ)がとった、禅譲による後世への影響とは……。


 

わずか9歳で即位、長い傀儡生活の幕開け

 

献帝が曹丕に禅譲を行なった受禅台の跡(中国・河南省)筆者撮影

 西暦189年、後漢の霊帝(れいてい)が34歳で亡くなった。すでに朝廷では外戚と宦官(かんがん)の権力抗争が相次いでおり、そこに豪族らも加わっての乱となる。それを制したのが董卓(とうたく)だった。董卓は、当時9歳の劉協(りゅうきょう)を帝位につけた。漢の第29代・献帝の誕生である。

 

 幼帝を抱いて都に君臨した董卓も、やがて部下の呂布に討たれ、その呂布も董卓の残党に都を追われた。その間、幼帝・劉協はただ、目まぐるしく変わる権力争いを見守るばかり。都は荒れ果て、ろくに食べるものもない有様に。「帝は行方知れず、漢は終わった」と人々は言い合った。袁術(えんじゅつ)のように、みずからを帝と自称する者まで現れた。

 

サバイバル生活の果て、曹操に保護される

 

 西暦196年、救世主が現れた。曹操である。曹操は救援の軍勢を差し向け、献帝一行を迎えにやり、許(きょ=現在の河南省許昌市)に住まわせた。皇帝がいる場所こそ都なので、許は許都(きょと)と呼ばれるようになる。曹操は劉協を丁重に扱い、劉協も曹操にいたく感謝し、当初の両者の関係は良好だった。

 

 しかし、権力者は並び立てないものだ。曹操は「帝」の威光を盾に権力者として君臨、いっぽうで劉協の旧臣たちは曹操の躍進を恨んで排除をたくらむ。成長して自我の芽生え始めた劉協と、曹操との間にも深い溝が生じ始める。それはあたかも、わが国の後白河天皇と平清盛、足利義昭と織田信長などの関係とも似ている。

 

 劉協はたまりかねて言った。「あなたが朕(ちん)を思うなら補佐せよ。そうでないなら退位させよ」と。これには、さすがの曹操も青ざめて部屋を出ていったという。だが曹操が勢力を広げ、権力を増すごとに劉協の発言力は弱まった。曹操は劉協の妃(きさき)らを反逆の罪で処刑したうえで、自分の娘の曹節を娶らせて帝の義父となり、さらには「魏王」の座についた。ついに漢の下に「曹王国」が誕生したのである。

 

 建安25年(220年)1月、曹操は66歳で亡くなるが、曹一族の支配はゆるぎない。曹丕(そうひ)は魏王の座を継ぐと、年も改まらぬ8月には劉協に禅譲(ぜんじょう)を迫った。禅譲とは帝位を譲り渡すということである。劉協は40歳になっていた。不惑というには、あまりに過酷すぎた。事実上の簒奪(さんだつ)だが、実権もない彼は従うほかはない。曹丕は勿体つけて二度も辞退してから「禅譲」を受けるというパフォーマンスを演じ、やっと帝位につく。

 

 このとき、抵抗をみせたのは意外にも皇后(曹操の娘)の曹節だった。彼女の兄にあたる曹丕が使者をよこしても、曹節は伝国璽(=皇帝の印/でんこくじ)を握りこんで、使者を激しく罵った。そんなことが数日つづいて、ついに曹節は伝国璽を投げ付けたという(『後漢書』)。曹節も、献帝と長く暮らすうちに情を寄せていたのかもしれない。あるいは父・曹操もしなかった「簒奪」を、兄がやったことに腹を立てたのか……。

 

 当の劉協は、どう思っていたのか。もはや帝位などどうでもよくなっていたのか、それについて発した言葉は何も残っていない。我が国の徳川慶喜が、大政奉還によって徳川幕府を終わらせたことに似ているようにも思うが、直後の政治・軍事的影響力の有無を考えると雲泥の差がある。

 

献帝が曹丕に殺された?

 

 こうして漢は滅び、曹一族による「魏」(ぎ)が興った。「帝は曹丕に殺された」という誤報が飛び、劉備は翌221年に皇帝を称して「蜀漢」(しょくかん)を建国(「蜀書先主伝」)。やがて揚州(ようしゅう)を拠点とする孫権も皇帝を名乗り、呉を建国。魏・蜀・呉の三国時代が到来する。一説に、曹操が生前、劉協から帝位を奪わなかったのは、この状況を予測していたからと考えられる。

 

 それにしても「帝は曹丕に殺された」という情報の出どころは、どこだったのか。劉備が帝位に就くための方便という説もあるが、実は生き永らえた劉協本人だったとしたらどうか。完全な憶測になるが、もし彼が「曹」の独り勝ちを許さず、同じ「劉」氏の復権を願っていたとすれば、それが彼の最後のささやかな抵抗だったと考えるのは行き過ぎだろうか。

 

 劉協は玉座を降りた。帝位を「献じた」ことで後世「献帝」と呼ばれるようになる。彼は退位後も皇帝だけが使える一人称「朕」(ちん)の使用を認められ、妻の曹節とともに山陽県(現在の陝西省)に移住して余生を過ごす。そして234年に54歳で世を去るが、それは偶然にも漢の再興のために戦い、陣没した諸葛亮の没年と同じ。54という享年までもが同じだった。

 

 時は流れて5世紀、永嘉の乱(えいかのらん)で献帝の子孫はことごとく殺されてしまった。だが、その子孫の一部は生き延びて各地へ逃れ、なかには日本へ渡来した者もいたといわれている。献帝の子孫と称した人のひとりが、あの比叡山延暦寺を開いた伝教大師・最澄(さいちょう)である。献帝と最澄の意外なつながりは、三国志という物語の枠をも超えた、大陸と日本列島のさまざまな結びつきを感じさせる。

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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