幕府公認の遊郭「吉原」は流行の発信地だった?─意外な実像に迫る─
いま「学び直し」たい歴史
江戸幕府公認の遊郭吉原。そこは現在の風俗街とは異なり、富裕層が集う一大社交場であり、全国の男女が訪れたいと願う観光名所でもあり、流行の発信地だった。実は、遊郭という遊び場のイメージがある「吉原」は、江戸文化の中心として栄えていた。ここでは、その実像に迫る。([『歴史人』電子版] 大人の歴史学び直しシリーズvol.4 「江戸の遊郭」より)
たんなる売春街ではなく流行の発信地であり観光地

妓楼の内部を描いた絵。豪華絢爛な遊女の姿が優美である。『古代江戸繪集』国立国会図書館蔵
吉原は幕府の認可を受けた遊郭(ゆうかく)だった。露骨な表現をすれば、幕府公認の売春街だった。
ただし、吉原は、現在の意味での「売春街」とは、かなり意味合いが違っていた。
たんなる売春街ではなく、江戸文化の中心のひとつであり、武士や庶民、男女を問わず訪れたいと願った、江戸最大の観光地でもあった、といったほうが適切であろう。
遊女の髪形や衣装は、当時の女性のあこがれであり、芝居と並んで、吉原は流行の発信地だった。
さらに、吉原の遊女は多くの浮世絵に描かれたし、戯作(小説)や芝居、音曲(おんぎょく)の題材にもなり、吉原を舞台に華麗な遊里文化が花開いた。
藩主の参勤交代に従って初めて江戸に出てきた勤番武士は、なにはさておき、吉原に行きたがった。彼らは金銭的な余裕がなかったので、たいていは見物だけだったが、それでも国元に帰れば、
「お江戸の吉原は華やかだぞ」
と、自慢できた。
江戸見物に来た老若男女にとっても、浅草の観音様(浅草寺)に参詣したあと、足をのばして吉原見物をするのは、定番の観光コースになっていた。
吉原人気は全国規模だったといえよう。
吉原はもともと、二代将軍・徳川秀忠(とくがわひでただ)の時代、現在の中央区日本橋人形町のあたりに開業した。
ところが、江戸の中心部に遊郭があるのは不適当として、幕府は移転を命じ、明暦3年(1657)、千束村(現在の台東区千束四丁目で、浅草の浅草寺の裏手にあたる)の地に移って営業を再開した。四代将軍・徳川家綱(いえつな)の時代である。
正式には、移転前の吉原は元吉原、移転後の吉原は新吉原だが、吉原の歴史300年を通じ、元吉原はわずか40年でしかない。
そのため、吉原といえば普通、移転後の新吉原をさす。本稿でも新吉原を吉原という。
吉原の区画は二町(約220㍍)×三町(約330㍍)の長方形で、総坪数は約2万2000坪。周囲は板塀と堀で囲まれていた。
周囲は「吉原田圃(たんぼ)」と呼ばれた田園地帯で、江戸市中からは遠い、辺鄙(へんぴ)な地だった。
吉原へは江戸のどこから来るにしても、最後は日本堤(にほんづつみ)という一本道を、駕籠(かご)か徒歩でいかねばならない。日本堤から五十間道をくだると、唯一の出入り口である大門があった。
大門をくぐると、別世界である。中央をつらぬいているのは“仲の町”と呼ばれる大通りで、ここは華麗なイベント広場でもあった。
仲の町の両側には引手茶屋が軒を連ねている。
1万人以上が暮らしたまさに「遊女城下町」

当時の吉原の「案内書」(パンフレット)である『吉原細見』。国立国会図書館蔵
仲の町から奥に入ると、大小の壮麗な妓楼(ぎろう)が立ち並び、時代により変遷があるが、3000人以上の遊女が生活していた。そのため、俗に「遊女三千」といわれた。
また、妓楼には多くの奉公人が生活している。大きな妓楼では、遊女と奉公人を合わせて、およそ100人を抱えていた。
そのほか、茶屋や料理屋、湯屋、各種商店もあり、裏長屋には芸人や職人も住んでいた。吉原の区画内でほとんどの用が足せたのである。
そのため、吉原の定住人口はおよそ1万人におよんだ。
そこに日夜、多くの人々が、遊興、見物、商売のためにやってきたのである。
いかに吉原が活気に満ち、繁栄していたかがわかろう。
現在、「企業城下町」という言い方があるが、吉原はまさに「遊女城下町」だった。
吉原は江戸町一丁目、江戸町二丁目、揚屋町(あげやちょう)、角町(すみちょう)、京町(きょうまち)一丁目、京町二丁目、伏ふし見み 町ちょうに分かれていた。この呼び名は、現在の吉原にも残っている。
[『歴史人』電子版]
歴史人 大人の歴史学び直しシリーズvol.4
永井義男著 「江戸の遊郭」
現代でも地名として残る吉原を中心に、江戸時代の性風俗を紹介。町のラブホテルとして機能した「出合茶屋」や、非合法の風俗として人気を集めた「岡場所」などを現代に換算した料金相場とともに解説する。