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名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅

伝統と歴史と美しさを継ぐ名古屋・有松 ─荒地から日本一の〝絞りの町〟となった ─

名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅⑩【最終回】

名古屋で絞りの文化とともに日本の美しさを今に伝える「有松」。その町並みは江戸時代の情緒を見る者に感じさせる。400年近くの時を刻みながら受け継がれた風景と伝統に迫る。

■耕地もなく草木が鬱蒼とした地からはじまった絞りの物語

有松の町並み

有松の町並み有松の町には江戸時代から形成された歴史的建造物が立ち並び、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定、有松を語るストーリーは日本遺産にも認定されている。

 関ヶ原(せきがはら)の戦いに勝利した徳川家康(とくがわいえやす)は、慶長(けいちょう)6年(1601)、東海道に宿駅を設けることを命じた。これにより、いわゆる東海道五十三次(ごじゅうさんつぎ)が整備されたのである。そのうち知立(ちりゅう)(池鯉鮒)宿から鳴海(なるみ)宿までは2里30町(約11・1㎞)と長かった。この間に人家はほとんどなく、しかも松林が鬱蒼とした荒地であったらしい。慶長13年、尾張(おわり)藩では知多(ちた)郡全域に高札(こうさつ)を立てて移住者を募り、桶狭間(おけはざま)村から分立した有松(ありまつ)の地に入植させていく。ちなみに、有松の名は、この地に松が多かったからとも、新しい町の意味をもつ新町から転じたものともいう。それはともかく、尾張藩は有松に茶屋などを設け、間宿(あいのしゅく)にしようとしたのである。

 移住にあたっては、尾張藩により諸役免除(しょやくめんじょ)や屋敷地を免租地(めんそち)とするなどの優遇措置がとられていた。ただ、旅人に向けて茶屋などを始めたものの、東海道の鳴海宿にも近い有松では、商売にはならなかった上、間宿は正式な宿場町ではないので、旅籠の経営はできない。丘陵に位置する有松村は耕地面積も少なく、農業にも適していなかった。そのため、最初に移住してきたのは、わずか8人にすぎなかったと伝わる。

竹田庄九郎

竹田庄九郎有松の絞りの開祖。新しい町を拓き、街道を行き交う旅人に販売しはじめた絞り染めは評判を呼び、街道一の名物となったという。『有松志ぼり』(昭和41年1月10日発行)より

 そのころ、天下普請(てんかぶしん)によって名古屋城の築城工事が進められており、九州からも多くの大名が動員。九州は絞りの産地としても知られており、絞り染めの衣装を身に着けていたらしい。有松の移住者のひとりである竹田庄九郎(たけだしょうくろう)は、これをみて有松で絞り染めを始めたという。こうして、有松一帯では、絞りが生産・販売されることになった。これらの絞りは、「有松絞り」として知られるようになり、尾張藩の庇護(ひご)もあって町の名産として発展していく。

東海道五十三次

東海道五十三次 鳴海歌川広重の浮世絵に描かれた鳴海宿の様子。街道沿いには絞り染めを販売する店々が並ぶ。国立国会図書館蔵

 

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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