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名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅

江戸と京を結んだ名古屋の『七里の渡し』─尾張の海の玄関口として東海道最大の宿場町として─

名古屋の歴史と文化を 訪ねる旅⑨

■宮の渡しと「常夜灯」と「鐘楼」

時を告げる鐘を設置した鐘楼と船人のための道標となった常夜灯

宮の渡し公園

宮の渡し公園尾張藩の玄関口として栄えた宮の渡しの跡。常夜灯、時の鐘の鐘楼が復元された。

 熱田から桑名までの航路は、俗に「七里の渡し」とよばれていた。七里の渡しに利用された船は、さまざまで、大名が乗る御座船(ござふね)から、庶民が乗る帆掛け船まであった。当時は帆船だったので、所要時間は風や潮の状況に左右される。順調にいったとして、おおよそ3時間から4時間ほどかかったとみられる。

 明治維新後、近代化により東海道線が敷設され、国道一号が開通すると、熱田と桑名を結ぶ七里の渡しは、その役目を終えることになった。熱田沖から七里の渡し周辺は埋め立てられ、出島のようになっていた東浜御殿は消滅する。その東浜御殿跡を含む一帯が、「宮の渡し公園」として整備され、現在は、「鐘楼(しょうろう)」と「常夜灯(じょうやとう)」が復元されている。

蔵福寺

蔵福寺七里の渡し航行のための鐘を設置していたお寺。当時は庶民に時を告げる役割を果たした。

 「鐘楼」は、延宝(えんぽう)4年(1676)、尾張藩主・徳川光友の命により、蔵福寺(ぞうふくじ)内に設置された。時刻を知らせるためのもので、当然のことながら、船の航行にも用いられた。戦災で鐘楼が焼失したため、「宮の渡し公園」に復元されたが、鐘は今でも名古屋市博物館に残されている。

「常夜灯」は、寛永2年(1625)、尾張藩の附家老(つけがろう)で犬山(いぬやま)城主だった成瀬正虎(なるせまさとら)が父・正成(まさなり)の遺命によって寄進したものである。常夜灯の文字通り、常に灯りがともされていて、船が着眼する際の目標物となっていた。当初は、須賀浦(すがのうら)の太子堂(たいしどう)(現在の聖徳寺)に隣接して建てられていたが、のち現在地に移されている。

聖徳寺 太子堂

聖徳寺の太子堂海辺で獲た聖徳太子像を安置するお堂。江戸初期は、聖徳寺が常夜灯を管理していたという。

 海岸線が後退しているため、湊町であったころの情景を想像するのは難しい。しかし、「鐘楼」と「常夜灯」によって、かつての栄華をうかがい知ることができる。

 

<名古屋に残る歴史スポット>

■日本女性三大名文の場所「裁断橋」

小田原攻め陣中で病死した子を想い、橋の立て替え時、擬宝珠に供養文を刻んだ母の物語が残る。
名古屋市熱田区伝馬2-5

 

■歌舞伎の名優「中村宗十郎出生地跡」

名古屋出身の明治時代の歌舞伎名優が生まれた場所。中村団十郎と並ぶ評価を得た。
名古屋市熱田区伝馬町1-7

 

■東海道、美濃路、佐屋路の分岐点「東海道道標」

宝暦8年(1758)に建立された道標。刻まれた文字が薄くなっているところに歴史を感じる。
名古屋市熱田区伝馬1-2-25

 

■明治6年創業のひつまぶしの名店「あつた蓬莱軒」

 

140年の歴史を誇る老舗。名古屋といえばひつまぶしだが、このお店がその代表格。
名古屋市熱田区神戸町503 本店(陣屋)
https://www.houraiken.com/

 

信長攻路web

「信長攻路」の詳細についてはこちら
https://nobunaga-kouro.nagoya/

名古屋コンシェルジュ

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「名古屋コンシェルジュ」

https://www.nagoya-info.jp/

 

 

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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