カーチスP-40C型トマホーク×デヴィッド・リー“テックス”ヒル(アメリカ海軍→陸軍)~ヒット・アンド・アウェー戦術で勝機を見出す
第2次大戦:エースとその愛機 最終回~誇り高き蒼空の騎士たち、そして彼らが駆った“愛馬”たち~
「ホーク」から「トマホーク」へ

フライングタイガースの愛称で知られるアメリカ人義勇飛行隊所属のカーチスP-40C型トマホーク。機首側面には小さな目が描かれており、機首下面のエアインテークを虎の口に見立てて、タイガーマウスと呼ばれる虎の口と牙を模した塗装が施されている。主翼下面の国籍マークは中華民国を示す青天白日。
1938年から軍への納入が開始されたカーチスP-36ホークは、性能的に今ひとつぱっとしなかった。だが当時、すでにヨーロッパには戦雲が垂れ込めつつあり、大西洋の対岸に位置するアメリカとしても、相応の準備をしておく必要があった。
そこで、ホークのプラット・アンド・ホイットニーR-1830ツイン・ワスプ空冷エンジンを、当時最新の液冷エンジンであるアリソンV-1710に換装して正面投影面積を減らし、空気抵抗を削減させて性能の向上を図ることが試みられた。
こうして誕生したXP-40は1938年10月14日に初飛行したものの、空力的設計に問題があり、期待を裏切る低性能だった。そこで各部に改設計を加えて翌39年1月に再試験を実施し、4月26日にやっと採用に漕ぎ着けている。
P-40の量産型の納品は1940年6月からとなったが、当初予定されていたターボ過給器が装着されなかったため、中高度以上での性能に劣り、機動性にも欠けるためドイツのメッサーシュミットBf-109との戦いは不利で、ましてや運動性能に優れる零戦や隼とのドッグファイトではまったく勝ち目がなかった。ただし機械的信頼性が高く頑丈な機体で、パイロットの脱出生還率が高い点は評価された。
そこで、P-36を直系の母体として開発されたP-40~40C型トマホークに代えて、1941年中旬以降は、相当な改設計を加えたP-40D~40N型(キティホーク、ウォーホーク)へと生産が移行した。特にF、Lの両型は高高度性能の向上を目的として、V-1710の代わりに、イギリス製の名エンジンであるロールスロイス・マーリン液冷エンジンのアメリカ生産型のパッカード・マーリンを搭載した。
そのため、初期のP-40はドイツ機や日本機の敵ではなかったが、後期型になると相変わらず勝ち目の薄いドッグファイトではなく、ヒット・アンド・アウェー戦術を用いることで、ドイツ機や日本機ともそこそこに空戦ができるようになった。
太平洋戦争緒戦の時点では、零戦や隼の敵ではないと思われていたP-40だったが、このように大戦後半になると性能がアップしており、練度が下がった日本軍パイロットの操縦するそれらをかなり撃墜している。
海軍から陸軍に移籍した異端児
P-40と切っても切れない縁のあるパイロットといえば、デヴィッド・リー“テックス”ヒル(最終階級:准将)だろう。1915年7月13日に宣教師の息子として日本統治下の韓国で生まれたが、テキサス州で育ったため同州訛りで話し、常にカウボーイ・ブーツを履いていたので“テックス(テキサス人の意)”の愛称で呼ばれるようになった。
当初は海軍航空隊に入隊し、艦上爆撃機や艦上攻撃機のパイロットとして空母での勤務を経験。その後、中国で戦うアメリカ人義勇飛行隊フライングタイガースに志願し、第2中隊長を務めた。そして同隊が解散すると、司令官だったクレア・リー・シェンノート(最終階級:中将)の補佐として中国航空機動部隊に移籍し、陸軍航空軍の戦闘中隊長や航空群司令などを務めた。
生涯での撃墜機数は15.25機(うち2機はP-51で撃墜)といわれるが異説もある。2007年10月11日、テキサス州テレルヒルズで逝去。享年92。