リパブリックP-47サンダーボルト×フランシス・スタンリー・ガブレスキ(アメリカ陸軍航空軍)~被弾・損傷に強い重戦闘機
第2次大戦:エースとその愛機 第8回~誇り高き蒼空の騎士たち、そして彼らが駆った“愛馬”たち~
ターボ過給機で重い機体を引っ張る

リパブリックP-47サンダーボルトの最終量産型となったN型。それまでの型式に比べて大きく改修が加えられており、サンダーボルトの集大成といえる。ドイツ降伏後の太平洋戦域での主用が考えられていたが、日本の降伏によりわずかな期間しか実戦に参加していない。
第二次大戦前のいわゆる戦間期、特に1930年代前半は、航空技術の進歩と発展が著しい時代だった。そのため各国の航空機を運用する軍も最新技術が盛り込まれた機体を求めたが、このような時流のなかで、アメリカ陸軍航空隊はいくつかのニーズを掲げていた。しかし技術進歩が速すぎて方向性を絞りかねており、一部に暗中模索の部分もあった。
だが、それでも最新鋭の機体の配備は国防の最重要事項であるため、要求性能仕様を逐次公表して各社の応札を受け付けていた。その中の1社にリパブリック社があり、同社の前身のセヴァスキー社が開発したP-35を発展させたAP-4(XP-41)で1939年の競合試作にエントリー。そして同機をさらに発展させてP-43を開発し、1940年にランサーとして制式化された。
実はこの時期、リパブリック社はXP-41からP-43までの「血統」を継承する、強力なプラット・アンド・ホイットニーR-2180ツイン・ホーネット空冷エンジンを搭載したXP-44を提案していた。だがプラット&ホイットニー社がR-2180の生産を中止したので、より大馬力のR-2800ダブル・ワスプ空冷エンジンの搭載を考えたが、P-43を元にした機体に同エンジンは大き過ぎて載せるのが困難だった。
そこで、亡命ロシア人でリパブリック社の技師長を務めるアレキサンダー・カルトヴェリは1940年1月、R-2800を搭載するXP-47の設計に着手。この強力なエンジンに大量の空気を送り込む手段として、ターボ過給器を装着することにした。それを可能にしたのは、アメリカは当時、世界に抜きん出たターボ過給器技術を擁していたからだった。
かようなカルトヴェリの判断は奏功し、P-47は「重いが飛び抜けて頑丈な機体を強力なエンジンで力任せに引っ張る」重戦闘機として1941年5月6日、初飛行に成功。制式化されてサンダーボルトの愛称を付けられた。被弾や損傷に抜群に強く、実に8挺もの50口径機銃を装備し、日本軍の双発軽(そうはつけい)爆撃機並みの約2500ポンドもの爆弾やロケット弾などが搭載可能で、まさに重戦闘機と称するに値する強力な機体として世に出たのである。
ポーランド人パイロットとの奇妙な親交
このサンダーボルトを愛機として名を上げたエース・パイロットが、フランシス・スタンリー・ガブレスキだ。1919年6月28日にペンシルバニア州で生まれた彼は、ノートルダム大学医学部から陸軍航空士官候補生を志願し、1941年3月に少尉に任官してウイング・マークを得た。そしてハワイに勤務中に日本軍のパールハーバー奇襲を経験。
その後の1942年末、イギリス空軍の第315自由ポーランド義勇中隊に所属しスピットファイアに乗って戦い、1943年2月にアメリカ陸軍航空軍に復帰。P-47を装備する名門戦闘機部隊の第56戦闘航空群で活躍する。特筆すべきは、イギリス空軍時代の伝手で、休暇中のポーランド人パイロットが「助っ人」として同航空群のP-47の操縦桿を握るケースがあったことだ。
だが1944年7月20日、対地攻撃中に不時着し、ドイツ軍の捕虜となった。戦後はコロンビア大学で学び、朝鮮戦争では、第4戦闘航空団の副司令としてジェット戦闘機F-86セイバーに乗って戦った。最終的に第二次大戦で28機、朝鮮戦争で6.5機、計34.5機の撃墜を記録している。
2002年1月31日逝去。享年83。