グラマンF6Fヘルキャット×デヴィッド・マッキャンベル~パイロットからも高評価を与えられたワイルドキャットの進化版
第2次大戦:エースとその愛機 第6回~誇り高き蒼空の騎士たち、そして彼らが駆った“愛馬”たち~
あまりに有名な「グラマン戦闘機」

1944年7月30日、サイパン沖に停泊した空母エセックスのフライトデッキ上で整備中のマッキャンベルの愛機グラマンF6Fヘルキャット「ミンシII世」号。
第二次大戦前の1936年、アメリカ海軍航空隊は艦上戦闘機の近代化に着手し、その性能要求仕様を交付。そしてブリュースター社のF2Aバッファローの採用を決めたが、同機の開発失敗や性能不足を考慮した「保険」として、すでに海軍機の名門として知られていたグラマン社が提案するF4Fワイルドキャットも開発を進めさせることにした。
この「読み」が的中してバッファローの開発は遅延。競合機だったワイルドキャットの配備も進められた。やがて太平洋戦争が始まると、零戦に全く歯が立たないバッファローに対して、「保険」だったはずのワイルドキャットは、苦戦しつつもそれなりに戦うことができた。
このような状況にあって、アメリカ海軍航空隊は、より先進的なヴォート社のV-166B(のちのF4Uコルセア)の開発を進めていたが、同機の「保険」であると同時に、ワイルドキャットをさらに進化させた機体としてF6Fヘルキャットが登場した。結局、コルセアの開発が遅延してしまい、その結果、ワイルドキャットに続く「二度目の保険」だったヘルキャットが、一足先に部隊へと配備されたのである。
ヘルキャットという機体について大雑把に言うと、ワイルドキャットのエンジンを強化し、向上した分の出力で兵装、防弾、速度性能を向上させ、加えて、ワイルドキャットのさまざまな欠点の解消を目指したものと思えばわかりやすい。開発はスムーズに進み、戦時速成の「にわかパイロット」でも安心して操縦できる安定した機体として完成したが、これは軍用機に必須の重要な要素である。
ヘルキャットは性能的に特に傑出している点もなく凡庸な機体と評されることも多いが、実際に乗って戦ったパイロットたちは、本機に対して例外なく高い評価を与えている。ダイブによる加速と組み合わせれば、ほとんどの日本機よりも速いので、いざとなったら任意で戦闘から離脱でき、防弾に優れているので安心して乗れて、対空、対地の武装の威力と搭載量も適切で、頑丈で被弾に強く大きな損傷を被っても生還可能というのが、本機に対する評価であった。
デイヴの愛称で親しまれたアメリカが誇る第3位のエース
ヘルキャットを駆ってアメリカ海軍のトップエース、また、全アメリカ軍では第3位となったのが、デヴィッド・マッキャンベル(最終階級:大佐)だ。デイヴの愛称で親しまれた彼は、1910年1月16日にアラバマ州ベッセマーで生まれた。
1933年6月、アナポリス海軍兵学校を卒業して少尉に任官したが、不況の影響でそのまま予備役にスライド。翌34年に改めて正規士官の少尉に再任官し、航空観測員を経て1938年にパイロットとなった。
28歳という遅咲きのデビューながら急速に撃墜機数を伸ばし、1944年10月24日の空戦では、日本機を相手に撃墜9機、不確実撃墜2機というスコアをあげた。この戦績は、1回の空戦での撃墜機数としては全アメリカ軍を通じて最多であり、議会名誉勲章が授与されている。
なお、マッキャンベルの総撃墜機数は34機で、1964年に軍を退役。1996年6月30日、86歳で逝去した。