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メッサーシュミットBf109×ゲルハルト・バルクホルン ~ドイツが誇る世界的名戦闘機

第2次大戦:エースとその愛機 第2回~誇り高き蒼空の騎士たち、そして彼らが駆った“愛馬”たち~

二人の技師から生まれた名機

第52戦闘航空団第2飛行隊長時代、愛機メッサーシュミットBf109G型のコックピットに収まって離陸準備中のバルクホルン。1943年の撮影。

 あまりにも有名なドイツの戦闘機メッサーシュミットBf109は、ヴィルヘルム“ヴィリー”エミール・メッサーシュミットとロベルト・ルッサーという二人の優秀な航空機設計技師の共作である。

 

 ドイツ航空省技術局が、のちにBf109となる新しい単発単座戦闘機の仕様をまとめた1933年6月当時、世界各国の戦闘機は、まだ第1次大戦時の空戦の主流であるドッグファイト(格闘戦)に対応した、速度よりも小回りがきく性能を備える機種が中心だった。

 

 ところがBf109には、逆に小回りよりも高速性能を重視し、ヒット・アンド・アウェー(一撃離脱戦)で敵戦闘機と戦うという、航空エンジンの出力がより向上するであろう近未来の空戦形態に対応した性能が求められた。

 

 メッサーシュミットとルッサーはこの要求を実現。1935年5月28日、Bf109試作1号機が初飛行に成功した。

 

 そしてこの時から、ドイツが誇る「メッサーシュミット戦闘機」とルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)のエースたちが織り成す武勇伝が始まったのである。

 

世界にたった二人のスーパーエース

 

 第2次大戦でルフトヴァッフェは世界で唯一、敵機を300機以上撃墜したスーパーエースを二人生み出した。

 

 現在も300機以上撃墜したエースはこの二人以外に存在せず、おそらく人類史上未来永劫にそれ以上の撃墜機数に達するエースは出現しないだろうとの実情から、ジョークで「オーバー300機撃墜クラブの地球上でたった二人だけの会員」とも称される。

 

 そんな二人の愛機は、共にBf109であった。

 

 このうち、世界第1位のエースで352機撃墜のエーリヒ・アルフレート・ハルトマンは、よく知られた有名人だ。だが、301機撃墜の世界第2位のエース、ゲルハルト・バルクホルン(最終階級:少将)は、その控えめな性格のせいもあってハルトマンほど知られていない。

 

 “ゲルト”の愛称で呼ばれたバルクホルンは1919年3月20日、オストプロイセンのケーニッヒスベルクで生まれた。

 

 1938年に士官パイロット課程へと進み、第2次大戦勃発直後に最初の配属先の第2戦闘航空団に着任。40年8月に第52戦闘航空団に転属してバトル・オブ・ブリテンに参加したが戦果を得ることはできなかった。

 

 1941年6月、独ソ戦が始まると7月2日に初撃墜を記録し、少しずつスコアを重ねて行く。

 

 そして1942年3月以降、スコアは急激な伸びを示し、8月に64機撃墜で騎士十字章、翌43年1月には100機撃墜で柏葉騎士鉄十字章、44年3月には250機撃墜で剣付き柏葉騎士鉄十字章を受章。

 

 しかし同年5月に負傷して戦線を離れ10月末に復帰した。

 

 大戦末期の1945年1月5日、301機撃墜を達成。この偉業で宝剣付き柏葉騎士鉄十字章受章の資格を得たが、大戦末期だったため授与には至っていない。

 

 その後、第6戦闘航空団司令から第44戦闘分遣隊に転属しジェット戦闘機Me262を乗機とした。

 

 しかし同月21日に墜落して入院。そのまま終戦を迎えたため、スコアは総撃墜機数301機のままだった。

 

 大戦初期、追い詰めた敵機の横に並んで敵パイロットに脱出を促してから撃墜するという紳士的かつユーモアのある逸話からもうかがえる好男子で、自身も9回撃墜され、うち1回はパラシュートで脱出。また、負傷も3回経験している。

 

 戦後は西ドイツ空軍に勤務し、退役後の1983年1月6日、アウトバーンで交通事故を起こして収容先の病院で11日に逝去。享年63。

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白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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