ラヴォーチキンLa-5×イワン・ニキートヴィッチ・コジェドプ~エンジン換装で誕生した名戦闘機
第2次大戦:エースとその愛機 第4回~誇り高き蒼空の騎士たち、そして彼らが駆った“愛馬”たち~
三名の技師が設計したソ連空軍が誇る単発戦闘機

第21戦闘飛行連隊所属のラヴォーチキンLa5。一時期、コジェドプも本機を駆って撃墜スコアを増やした。
1930年代後半、ソ連空軍は大規模な戦力改革に向けて、新世代の単発戦闘機を数機種、異なる設計局に開発させた。
その中にOKB-301設計局(別名ラヴォーチキン設計局)が開発したLaGG-3があった。ちなみに、ラヴォーチキン、ゴルブーノフ、グードゥコフという3名の設計技師の共同設計による機体なので、各人の頭文字の「La」と二つの「G」を重ねてLaGGと命名されたのである。
だがLaGG-3は、機体重量に比べて搭載されたクリーモフM-105PF液冷V型12気筒エンジンがアンダーパワー気味で、これが戦闘機としての「将来の伸びしろ」を制限していた。そこで新規に開発されたシュベツォフ ASh-82FN空冷複列星型14気筒エンジンへと換装することになり、こうしてLa-5シリーズ(本機では「G」二つは外された)とその発展型のLa-7が誕生。第二次大戦中盤以降、ソ連空軍が誇る単発戦闘機として大活躍した。
ソ連邦英雄3回受賞のトップエース
このLa-5シリーズとのちにはLa-7を駆り、第二次大戦中に62機を撃墜してソ連のトップエースとなったのが、イワン・ニキートヴィッチ・コジェドプである。ウクライナのオブラジェーイェフカ村で1920年6月8日に生まれた彼の生家は貧しい農家で、苦学の末に理工系の化学工業技術専門学校に入学。そして1940年の卒業と同時に空軍を志願しパイロットを志す。翌41年、士官パイロット課程を修了。
過去の学歴のおかげでコジェドプは技術的知識に通じているだけでなく、パイロットとしての成績も優等だったため、修了と同時に同課程の教官職を拝命した。実戦参加を熱望する本人の意向は無視され、2年間も教官職を務めたのちの1943年3月、やっと念願の実戦部隊である第240戦闘機連隊に転出し、La-5(のちにはLa-7)に乗ることになった。
以降、撃墜機数を順調に伸ばして1944年2月4日に1回目、同年8月19日に2回目のソ連邦英雄を受賞。1945年2月15日、第二次大戦中のソ連空軍で唯一、ジェット戦闘機メッサーシュミットMe262を撃墜したパイロットとなった。さらに同年4月、ソ連邦史上3名しか存在しない、実に3回目のソ連邦英雄受賞という栄誉に輝いている。
戦後は朝鮮戦争に従軍。ソ連最高会議代議員やソ連人民代議員を複数回務めた。1991年8月8日にモスクワで逝去。享年71。