ヤコヴレフYak-1×リディア・ヴラジミーロヴナ・リトヴャク(ソ連空軍)~秀逸な空戦能力を備える名機と女性パイロット
第2次大戦:エースとその愛機 第7回~誇り高き蒼空の騎士たち、そして彼らが駆った“愛馬”たち~
ソ連空軍の次世代戦闘機として開発

ヤコヴレフYak-1。写真の機体は、いわゆるティアドロップ・キャノピーになる前のコックピット周りを備えている。リトヴャクの乗機としては胴体番号「黄色の44番」と、ティアドロップ・キャノピーを備えたYak-1Bの同「白の23番」が知られている。
革命によって世界初の社会主義国家となったソ連は、国家のバックアップにより軍事、工業、科学、医学、芸術などの分野の発展に力を注いだ。そしてスペイン内乱では左派の人民戦線政府を支援したが、当時のソ連空軍の主力戦闘機ポリカルポフI-16は、ドイツのメッサーシュミットBf109にかなり劣ることが判明した。
このような事態に危機感を抱いたソ連空軍は、国内の各航空機設計局に新型戦闘機の開発を命じた。その結果、それぞれの設計局が並列的に設計を開始したが、そのうちのひとつが、1940年1月に初飛行したヤコヴレフ設計局のI-26であった。
I-26に冠せられた接頭記号の「I」は、当時のソ連空軍における戦闘機を示す頭文字だが、1940年12月に命名規則の変更が行われ、設計者の苗字の頭文字の後ろに設計された順番を示す数字が示される方式となった。その結果、本機もI-26からYak-1へと改称されている。
それまでのI-16がずんぐりとした外観の機体だったのに対して、液冷エンジンを搭載したスマートな外観のYak-1は、出現当初は「クラサーヴェツ(ロシア語で「美男子」の意)」の渾名(あだな)で呼ばれたという説もあるようだ。
ところが、当時の戦闘機としては着陸速度が速すぎたので、飛行経験の浅い新人パイロットには扱いにくい機体とされた。だがその反面、本機に習熟したパイロットの手にかかると、きわめて優れた空戦能力を発揮した。
そのため、Yak-1をベースにした発展型のYak-7 やYak-9などが継続して開発され、本シリーズの総生産機数は、戦後の生産分も含めて約3万6700機という多数となっている。ちなみにこの数字は、レシプロ(プロペラ式)単発戦闘機としては史上もっとも多い生産機数とされる。
戦空に散った「スターリングラードの白百合」
Yak-1を駆ったソ連空軍のエースは少なくないが、ひときわ異彩を放つのが女性エース・パイロットのリディア・ヴラジミーロヴナ・リトヴャクだ。1921年8月18日にモスクワで鉄道労働者の家庭に生まれた彼女は、10代で共産主義青年同盟の民間飛行クラブに入って航空機の操縦を学んだ。
1941年6月に独ソ戦が勃発すると、ソ連が誇る女流飛行家マリナ・ラスコーヴァが、女性だけの軍事飛行隊を編成するべく、操縦士免許や航空整備士資格を有する女性に空軍への参加を求めた。これに応じて、応募条件に満たない飛行時間を誤魔化すなどして入隊したリトヴャクは、Yak-1を装備する女性部隊の第586戦闘機連隊に配属された。
第586戦闘機連隊で実力を認められた彼女は、その後いくつかの男性部隊に勤務し、さらに自身への評価を高めていった。ソ連側の新聞発表で「スターリングラードの白百合」として一躍その名が知られるようになった彼女は、やがて第73親衛戦闘機連隊へと異動。同連隊で勤務中の1943年6月、Yak-1の熟練パイロットとして飛行中隊長に任ぜられた。
だが1943年8月1日、全世界における女性のトップエースで12機撃墜(複数の異説あり)のリトヴャクは、戦闘中行方不明となってしまった。そのため戦死説だけでなく捕虜説も唱えられ、戦後に行われた入念な調査によりやっと戦死が確認されたとして、1990年になってソ連邦英雄に叙せられた。最終階級は上級中尉。享年21だった。