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メッサーシュミットBf110×ハインツ・ヴォルフガング・シュナウファー(ドイツ空軍)~夜戦型として復活した爆撃機

第2次大戦:エースとその愛機 第11回~誇り高き蒼空の騎士たち、そして彼らが駆った“愛馬”たち~

ツェルステラー(駆逐機)という名称も昼間の戦闘では期待を裏切る

飛行中のメッサーシュミットBf110G4型。機首に装備された巨大なアンテナはリヒテンシュタイン機載捜索レーダーのもので、その形状からヒルシュゲヴァイ(「雄鹿の角」の意)と呼ばれた。

 単発単座戦闘機Bf109の採用を決めたあと、ドイツ航空省は別の用途に向けた戦闘機を求めた。航続距離が長く、味方の爆撃機を護衛して敵地深くまで侵攻したり、領空に侵入した敵機を長時間にわたって追尾迎撃可能な機体である。

 

 当時の技術では、搭載量の多い双発のほうがこのような目的に適していると考えられたため、航空省は双発戦闘機を求めた。ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングは、この機種に対する思い入れが強く、敵機を狩るという意味を込めてツェルステラー(Zerstörer。駆逐機の意)と命名された。

 

 航空省が交付した要求性能仕様には数社がエントリーしたものの、選ばれたのはメッサーシュミット社のBf110だった。実は本機は、航空省の要求から逸脱した設計であり、その結果として他社の競合機種よりも高い性能を得ていた。これはある意味では「反則技」だったが、同社社主のヴィルヘルム・エミール・メッサーシュミットがナチ党上層部へのコネを使ってねじ込んだこともあり、「結果オーライ」的な採用となったのである。

 

 初飛行は1936512日で、翌37年から部隊配備が開始された。第二次大戦が勃発すると、1940年の西方戦まではボロを出さずに済んでいたが、それに続くバトル・オブ・ブリテンで、駆逐機という勇ましい名称とは裏腹に単発のスーパーマリン・スピットファイアやホーカー・ハリケーンに対抗できず、昼間戦闘機としては失格の烙印を押されてしまった。

 

 だが双発機ゆえの搭載量の多さを生かして戦闘爆撃機へと転身。さらに機上索敵レーダーを装備した夜間戦闘機となって戦闘機へとカムバックした。この夜戦型の中には、シュレーケ・ムジーク(ドイツ語で「ジャズ」の意)の秘匿名称で呼ばれた、斜め上方に向けて機関銃を装備し、敵機の下に入って撃ち上げて攻撃する機体もあった。

 

 この夜戦型はまずまずの成功作となり、昼間戦闘機としては早々に失格となったにもかかわらず、本機は終戦の年まで生産が続けられた。

 

その名は「サン・トロンの幽霊」

 

 Bf110といえば、部隊の駐屯地にちなんで「サン・トロンの幽霊」として連合軍爆撃機搭乗員たちに恐れられたハインツ・ヴォルフガング・シュナウファー(最終階級:少佐)がもっとも有名だろう。

 

 1922216日にシュトゥットガルトで生まれたシュナウファーは、1939年に空軍に入隊。19414月、少尉に任官し、夜間戦闘機訓練を受けたのちの同年11月、第1夜間戦闘航空団に配属された。初戦果は194261日の深夜で、イギリス軍重爆撃機1機を撃墜。

 

 以降、ずっと「夜戦畑」を歩き、194410月には夜戦における100機撃墜の戦功を称えられ、宝剣付き柏葉騎士鉄十字章を受章した。最終的な総撃墜機数は121機だが、これは歴史上、夜戦最多撃墜記録である。

 

1950715日、交通事故の負傷が原因で逝去。享年28

 

 

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白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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