ホーカー・テンペスト×ピエール・アンリ・クロステルマン(自由フランス空軍)~空戦・対地攻撃ともに優れた高性能名機
第2次大戦:エースとその愛機 第9回~誇り高き蒼空の騎士たち、そして彼らが駆った“愛馬”たち~
V1飛行爆弾撃墜に活躍した高速重戦闘機

クロステルマンが実戦で乗ったのと同じテンペストV型。ホーカー社の工場で完成後のフライトテスト中の様子。実はブリストル社製のセントーラス空冷エンジンを搭載したせいで機首の形状がまるで異なるテンペストII型も生産されたが、第二次大戦には間に合わなかった。
ホーカー・ハリケーンとスーパーマリン・スピットファイアという優秀な単座戦闘機の実戦配備を目前にしていたイギリス空軍だったが、航空テクノロジーの急速な進歩を鑑みて1937年、早々に次世代戦闘機の要求性能仕様書を提示した。
この仕様で重視されたのが、高速であることと重武装であることで、特に武装は、303口径機関銃を実に12挺か20mm機関砲6門のどちらかを装備するという、当時の単発戦闘機としては桁外れの重武装が求められていた。
またエンジンに関しては、当時開発中だったロールスロイス社のヴァルチャーかネイピア社のセイバーという、ともに最新の2200馬力級の強力な液冷エンジンの搭載が求められていた。
ホーカー社の主任設計技師であるシドニー・カムは、この仕様に基づいてヴァルチャーを搭載したトーネードと、セイバーを搭載したタイフーンの2機種を設計した。しかしトーネードは、肝心の「心臓」たるヴァルチャーが実用化できなかったせいで開発中止となった。一方、タイフーンの方はセイバーが抱えた新型エンジンには付きものの初期トラブルや機体設計上の不備を克服。大戦後半に低高度戦闘機、兼、戦闘爆撃機として戦っている。
機体とエンジンの両方を平行的に開発するのはリスクが大きいため、多くの航空機設計では既存の信頼できるエンジンの搭載を考えて機体設計が進められる。しかしトーネードやタイフーンの開発が始まった当時は、まだ2000馬力級エンジンが実用化されていなかったので、エンジンと機体の平行設計はやむを得ないことだった。
カムは当初から、仕様通りに20mm機関砲6門を装備するには相応の分厚い翼厚が必要となるが、それが速度の低下に結びつくと予想していた。そこでタイフーンの開発を進めている最中に、すでに同機の薄翼型の設計に着手していた。この薄翼に加えて、実用化後に判明したタイフーンのさまざまな問題点をできるだけ改善したうえで、同じセイバー・エンジンを搭載する制空戦闘機として生み出されたのがテンペストVである。
テンペストVは1944年2月から実戦部隊への配備が進められ、制空戦闘(空戦)能力に優れていただけでなく、対地攻撃能力にも秀でていた。だが、せっかくの高性能機ながら登場時期が遅かったせいでドイツ機との空戦の機会は少なく、代わりに、イギリス本土に向けて高速で飛来するV1飛行爆弾の迎撃に活躍している。
トリコロールを代表するエース
テンペストVが実戦配備されると、イギリス空軍とその傘下に在ったヨーロッパ各国の亡命空軍の優秀なパイロットたちがテンペストVに乗って戦ったが、戦後に自伝『Le Grand Cirque(邦題:撃墜王)』などいくつかの著作を著してその名を知られた、自由フランス空軍のピエール・アンリ・クロステルマン(最終階級:中佐)も、そういった有名人のひとりだ。
ブラジルのクリチバで1921年2月28日にフランス外交官の息子として生まれたクロステルマンは、幼少時から航空機に興味を持っていた。そしてアメリカに留学した折、ロサンゼルスでアマチュア・パイロット免許を取得した。
やがて第二次世界大戦が勃発すると、クロステルマンはイギリスに渡り、同地で結成されていた自由フランス空軍に入隊。すでにパイロット免許を所持しており、そのうえアメリカ留学のおかげで英語も流暢に話せる彼は、自由フランス軍将兵として編成され、スピットファイアを装備するイギリス空軍第341中隊に配属された。
大戦中に何回かの転属を経験したものの、ずっとスピットファイアを飛ばしていたクロステルマンだったが、長期休暇を終えた1945年に再び実戦勤務に就いた際にはイギリス空軍第3中隊に配属され、テンペストVを愛機とした。
その結果、本機での撃墜4機、スピットファイアでの撃墜7機の計11機撃墜が広く知られているが、異説としてトータルで33機撃墜、または23機撃と称されることもあり、近年では撃墜23機、撃墜不確実5機が適正なのではないかともいわれる。
戦後は技師やフランス議会下院議員を務めた他、アルジェリア独立戦争にも短期間加わった。2006年3月22日逝去。享年85。