伏見城攻め1600年<その4>~秀吉が築城技術の粋を集めた「天下人の城」かく戦えり
戦国武将の城攻め【解体新書】#028
虎口や高石垣、深く広い堀などの組み合わせによる高い防御力

鳥居元忠の最期 CG/成瀬京司
7月30日、西軍は総攻撃にかかった。島津勢は突進したものの、500人の死傷者を出して攻撃を頓挫させてしまう(城方の損害は50人だったという)。
わずか1800の兵でこれだけ善戦するのだから、徳川の兵の精強(せいきょう)さは相当なものだが、それ以上に秀吉が精魂こめて作らせたこの城の虎口(こぐち)や高石垣、深く広い堀などの組み合わせによる防御力が、どれほど優れていたかがうかがわれる。
しかし、最後のときは迫っていた。城内には家康と縁のある甲賀の地侍たちも入っていたのだが、甲賀に近い水口を領地とする長束正家(なつかまさいえ・五奉行のひとり)が彼らの妻子を捕らえ、寝返りと引き替えに命を助けようと矢文(やぶみ)を城内に射込んだのだ。
仰天した彼ら甲賀者の裏切りによって、城内松の丸に火がつけられ、その炎は名護屋(なごや)丸に燃え広がった。日付の変わった8月1日の夜中である。
ここぞと突撃を開始した西軍の鍋島勝茂(なべしまかつしげ)が追手門を破り、松の丸と名護屋丸が落ちた。島津義弘は治部少丸(じぶしょうまる)を奪い、守将の松平家忠以下800が玉砕。さらに天守にも火矢が放たれたが、元忠は
「最後まで戦い、西軍が東へ向かうのを一刻でも遅らせるのだ」
と戦いをやめようとはしなかった。200の兵とともに3度突撃をかけ、本丸に入ったときには兵の数は10人あまりに過ぎなかったという。
彼の最期の場所は、本丸にあがる石段の上とも、本丸御殿の玄関とも伝わる。寄せ手の内の雑賀重朝(さいかしげとも)という侍に発見され、彼に促されて兜と具足をはずし、諸肌脱ぎとなって主将らしく切腹したという。
城が陥落したのは午後3時ごろのことだった。伏見城は西軍を10日以上も食い止め、関ヶ原合戦で家康に勝利をもたらすお膳立てをしたのである。その意味でも、伏見城は「天下人の城」であった。
(次回に続く)