大盗賊・石川五右衛門が豊臣秀吉暗殺の実行犯だった!? あまりにもできすぎた「あやしい話」
日本史あやしい話
石川五右衛門といえば、天下の大泥棒として知られた御仁である。捕縛された後、大釜に放り込まれて煮殺されたというのも、多くの方の知るところだろう。しかしこの御仁、嘘か誠か、父を秀吉に謀殺されたその恨みを晴らさんと、伏見城に忍び込んで秀吉暗殺を試みたと言い伝えられることもあるのだ。しかもそれを捕らえたのが、後に信濃小諸藩の藩主となった仙石秀久だったか。何ともあやしげなお話のどこからどこまでが本当のことなのかはわからないが、豪華キャストが次々と登場してくるから、つい、ワクワクしてしまうのだ。
■あやしげな石川五右衛門の一代記
「絶景かな、絶景かな~〜」
壮大な南禅寺山門の欄干に片足をかけながら、こう大見得を切るのが、大盗賊・石川五右衛門である。下からは、真柴久吉(豊臣秀吉がモデル)が、忌々しく見上げている。続く「春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両」というフレーズも、歌舞伎ファンなら誰もが知るところだろう。
1778年に大坂角の芝居で歌舞伎『楼門五三桐』演じられて以来今日に至るまで、何度も演じられ続けてきた名場面である。ここでの五右衛門は、明の高官・宋蘇卿(日明貿易で活躍した貿易商・宋素卿がモデル)の遺児として登場。養父は何と、武智光秀(明智光秀がモデル)というから驚く。この何ともゴージャスな顔ぶれに、つい目を見張らされてしまうのだ。
物語自体はいかにも嘘臭くてとても史実だとは思い難いが、盗賊の五右衛門が実在したことだけは間違いないだろう。それでも、史実としての五右衛門がどんな人物だったのかに関しては、実のところ、目ぼしい資料がほとんど得られなかったと白状しておこう。反面、奇怪な伝説伝承となれば、数限りなく存在している。彼の一代記を無理にでもまとめようとすれば、史実と伝承を程よく織り交ぜて語るほかないのだ。あやしい話と揶揄されることを覚悟で、筆者なりに、その生涯をまとめてみることにした。それが、これから紹介する石川五右衛門の一代記である。
■不義密通の罪で死罪?
生を受けたのは1558年、出身地は遠州浜松であった。元は真田八郎と称したとの説もあるが、豪族丹後石川氏の出身だったとの見方の方が興味深い。もともと丹後の守護大名・一色氏の家老職を受け継ぐ家系の出で、父は、秀吉の謀略にはまって殺された石川左衛門尉秀門だったとか。思わず身を乗り出してしまいたくなるようなお話である。
父が謀殺されたことで、居城であった伊久知城が落城。その次男・五良右衛門が落ち延びて五右衛門を名乗ったのだとか。以来、秀吉を父の仇と恨んだというあたりが、何とも気になるところである。その後伊賀へとたどり着き、忍者の弟子となって伊賀流忍術を学んだとも。その師というのが、百地三太夫という名の忍者であった。
ところが、あろうことか、五右衛門が、師匠である三太夫の妻と密通。さらにはその妾まで殺害してしまったというから極悪人である。面白いのは、この百地三太夫が、実在の百地丹波と同一人物だったとの説。百地丹波とは、織田信長の次男・信雄が伊賀の領国化を目論んで攻め込んだ戦い・天正伊賀の乱(1578年)に敗れて高野山へ逃れたという御仁であった。
ちなみに三太夫といえば、真田十勇士の一人・雲隠れ才蔵や猿飛佐助の師でもあったということだから、その弟子であった五右衛門が真田姓を名乗っていたというのも、あながちありえない話ではなさそうだ。
■木村重茲が五右衛門に秀吉暗殺を依頼?
ともあれ、その後の五右衛門にも目を向けてみよう。伊賀の地を後にして、京の都へと出たようである。このあたりから、盗賊としての本領発揮。強盗、追剥等々、悪逆非道の限りを尽くしたというから、悪党中の悪党というべきか。
興味深いのがその隠れ家で、何と、豊臣氏滅亡の一端ともなった方広寺、その大仏殿の門前にあった大仏餅屋なる大店の店主を隠れ蓑として、大手を振って生きていたというから驚くほかないのだ。店から鴨川へと抜け出る抜け穴もあったとも伝えられているが、本当かどうか。
ただし彼が犯した罪は、必ずしも強盗ばかりではなかった。ここでまたしても彼の女癖の悪さが出た。奉公人の妻との不義密通であった。どうしようもない女好きである。その罪を問われて死罪となったとの説もあるようだが、それでは天下の大盗賊の名折れ。むしろ、次に紹介する大仕事に絡む捕物こそ本当であったと信じたい。それが、秀吉に絡む物語だったからだ。
登場するのは、秀吉の甥・秀次の家臣・木村常陸介(木村重茲)である。かの秀次事件で秀次を擁護したことで連座。自害を命じられたという実在の人物であった。伝承では、この御仁が、五右衛門に秀吉暗殺を依頼したというから、俄然、身を乗り出したくなってしまう。密かに伏見城に忍び込んだ五右衛門、難なく秀吉の寝室に忍び込むも、秀吉愛顧の千鳥の香炉と呼ばれる青磁の名品がチリチリ。鳴いて秀吉に危機を知らせたというわけである。慌てて五右衛門が逃げようとしたものの、とうとう捕まってしまったというわけである。これを捕らえたのが、後に信濃小諸藩主となった仙石秀久だったというのは、あまりにもできすぎた話で俄かには信じられそうもないが、話としては面白い。
捕らえられた五右衛門が三条河原まで引き立てられて大鍋に放り込まれ、「煎り殺された」とのお話は、誰もが知るところだろう。ちなみにここでいうところの「煎る」というのが何とも紛らわしい言い回しであるが、煮殺されたとみなすのが妥当だろう(水ではなく、油を使ったとみなされることもある)。
また、窯には五右衛門の幼い子も一緒に放り込まれたとも。悪人とはいえ、我が子だけは可愛かったとみえ、自分が生き絶えるまで子を持ち上げ続けていたとも。あまりの熱さに耐えきれず、子を踏み台にしたと言われることもあるが、それだけは信じたくはない。辞世の句は、「石川や浜の真砂は尽くるとも世に盗人の種は尽くまじ」であった…とまあ、このあたりが、史実と伝説伝承をごちゃ混ぜにした、筆者ならではの「あやしい話」である。どこまでが史実なのかは明確ではないが、果たして、お楽しみいただけただろうか?

「石川五右衛門刑場の図」/国立国会図書館蔵