「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた男装の麗人・川島芳子 清朝の王女が辿った数奇な人生
炎上とスキャンダルの歴史
■清朝の王女はなぜ「男装の麗人」となったのか
川島芳子ほど、語る人によって印象を変化させる女性はいないのではないでしょうか。「男装の麗人」、「東洋のジャンヌダルク」だけでなく、伝説の女スパイの名前を引用されて「東洋のマタ・ハリ」とさえ呼ばれている芳子。そのすべてが嘘とはいえないだけでもきわめてミステリアスな人物といえます。
芳子の神秘性の源泉は、彼女が「ラストエンペラー」こと愛新覚羅溥儀の親戚にあたり、清朝の創立者・太宗の第一子とその子孫が世襲した粛親王家の第十四王女であることでしょう。
芳子の実父の(第10代)粛親王・善耆と、養父・川島浪速の二人は、清末の「義和団事件」の動乱のさなかに出会い、明治39年(1906年)12月の大雪の日、身分を超えて「兄弟の義」――義兄弟の契りを結ぶほどに強く惹かれ合っていたそうです。
日本では明治45年(1912年)、政治的混乱つづきの中国で7歳の宣統帝(=溥儀)が廃位され、粛親王家は北京から、日本軍の勢力下にあった旅順まで脱出しています。
旅順の仮住まいの屋敷は、芳子の自伝によると「家族だけでも四十何人」いる粛親王家には手狭でした。おそらくそういう経緯もあって、子どもがいない川島浪速のもとに、親王は娘の一人を送ることを決意したようです。それがのちの芳子でした。
しかしその時、親王から川島家に送られた手紙には「君に玩具を進呈しようと思う」とありました。玩具としての芳子……かなり不気味な表現だと思いませんか?
本当は跡継ぎになる男の子がほしかった川島浪花から、芳子は当初、良雄と呼ばれていたという逸話もあります。粛親王と川島という二人の父から重たい期待を背負わせられる娘――それが芳子の子ども時代でした。
芳子は小学生のころから知的で、イギリスに占領されていたオルレアンの地をフランスに奪還した男装の「救国の乙女」ジャンヌ・ダルクに強い憧れを抱き、ノートを「ジャンヌ・ダルク」の名前で埋めるような少女として育ちました。しかし彼女がジャンヌのように長い髪を切り落とし、男姿となったのは、ポジティブな理由からではなかったようです。
川島家は、東京から松本(長野県)に引っ越し、芳子も同地の松本高等女学校に通うようになりました。ところが粛親王が突然倒れ、亡くなった悲劇に伴い、芳子も学校を半年休学し、中国に戻っていた時期がありました。この休学中に校長が代わり、復学には戸籍謄本が必要だといわれたことがきっかけで退学しています。
学校側からの申し出は、耳が遠くなり、気難しさが増していた川島浪速にとっては侮辱としか受け取れなかったのですね。日本で彼女は「川島芳子」を名乗ってはいましたが、実際に川島家の戸籍に入ったわけではありません。それは清朝の王女としていつでも復帰しやすくするための措置だったとされています。
ところが――芳子を川島家の戸籍に入れなかったことには、別の目的もなかったとは言い切れない気がするのです。退学後は自宅で、養父・川島浪速が定めたカリキュラム通りに勉学を続けていた芳子ですが、多くの男性から言い寄られるようになり、中でも松本連隊に赴任中の山家亨(やまがとおる)という青年将校とは懇意になりました。
のちに中国大陸で活躍する山家の流暢な中国語は芳子からレッスンされて身につけたものだそうです。しかし(おそらくは嫉妬した)川島浪速から交際を猛反対され、二人は別れざるをえませんでした。そして大正13年(1924年)10月6日、事件は起きました。17歳だった芳子は、長い黒髪をバッサリと切り落とし、「五分刈りの坊主頭」となってしまいました。そしてこれから男として生きると「男性宣言」までしたのでした。
山家との逸話は芳子の「自伝」には一切触れられず、その代わりに実在するかも不明の貧しい勤労青年「吉チャン」への仄かな恋心にページが費やされているだけ。
彼女が突然、坊主頭になった理由についても「女であることの煩わしさ」、そして「宗社復辟」――清朝復活を自分の手で成し遂げたいという「夢のようなヒロイックな気持ちが結合」した結果だと、あっけらかんと語られているにすぎません。
しかしその後の芳子の言動を見ていると、男装と女装の時期が交互に現れ、いずれの時期でも不特定多数からの注目を浴びようという欲求が病的なまでに強いのが気になります。やはり何か悲劇的な事件が、17歳頃の芳子に起きており、その結果が断髪事件だったのではないでしょうか。次回に続きます。

軍装の川島良子/『満洲国皇帝陛下御来訪記念写真帖』より