一撃必殺の薩摩「示現流」は本当に最強なのか!? 生麦事件と西南戦争での薩摩軍の活躍から分析する
目からウロコの剣豪・剣術伝説
■薩摩軍切り込み隊と警視庁抜刀隊の激突
NHKテレビで、昭和53年(1978)9月から昭和59年(1984)3月まで、『歴史への招待』という番組が放映された。内容の面白さはもとより、司会の鈴木健二アナウンサーの抜群の記憶力も話題となり、まさに名物アナだった。
さて、剣術について、「薩摩の示現流は最強」と固く信じている人がいる。また、生麦事件のイギリス人斬殺を、示現流のすごさの好例とする見方もあるようだ。
『歴史への招待』の昭和54年(1979)9月6日の放送は、『異人殺傷事件白書』で、生麦事件と示現流を取り上げていた。
放送内容を書籍化した『復刻版 NHK歴史への招待⑩』(日本放送出版協会、平成6年)に依拠しながら、示現流がどう描かれていたかを見ていこう。
書籍ではあるが、鈴木アナの名調子が聞こえてくるかのようである。
なお、書体を変えた部分は、『歴史への招待』からの引用である。テレビのナレーションとみてもらってもよい。
幕末の文久2年(1862)におきた生麦事件については、日本史の教科書にも出ていることなのでくわしいことは省略する。
【図1】は、イギリス人の写真家が撮影した、生麦事件の現場の光景である。東海道といっても細い道なのがわかろう。

【図1】生麦事件の現場。『生麦事件の現場』(ベアト撮影、1863年)、長崎大学附属図書館蔵
生麦村にさしかかった薩摩藩の島津久光の行列に、馬に乗って行楽に出かけたイギリスの商人リチャードソンら男女4人が遭遇した。
狭い道のため、リチャードソンが乗った馬は驚いて制御不能になり、行列の中に入り込んでしまった。
これを、薩摩藩の当番供頭の奈良原喜左衛門は無礼であるとした。
これをみた奈良原は忠弘の一刀を引き抜いてリチャードソンの左の肩のすぐ下から脇腹にかけてスパーッと斬った。しかし考えてみよう。馬の上に背の高いイギリス人が乗っている。たいへんな高さである。これを奈良原がどうして斬ることができたかであるが、この奈良原喜左衛門は薩摩示現流の流れをくむ一派の達人であった。この流派には猿叫(えんきょう)と呼ぶ、猿の叫び声に似たキエーッという掛け声もろとも飛び上がって上段から相手を斬り、地上におりたところでこんどは下段から斬り上げるという術があり、これを応用したのであった。
(中略)
リチャードソンが一町余り行った時に、今度は鉄砲組の久木村利休が飛び出した。この人がまた奈良原と同じ剣の達人、キェーッと叫んでリチャードソンをスパッと斬った。ところが、達人のやるのは同じことで、奈良原が斬ったのと同じところをまた斬ったと言う。これが深傷(ふかで)になった。しかも傷口を左手で押えていたために、左手を手首から手の甲にかけてスパーッと斬られて、皮一枚でつながっているだけになった。リチャードソンは馬にうつ伏す。馬はそのまま、十町も駆け出したところで、リチャードソンは脇腹の傷口から内臓がはみ出してきて、たまらずどっと落馬した。
「示現流、恐るべし」という、鈴木アナの興奮ぶりが伝わってくるかのようである。
しかし……。
奈良原が斬った相手が、銃やサーベルを持ったイギリス陸軍の軍人だったのなら、示現流はすごいと評するのも、うなずけなくはない。
だが、リチャードソンは軍人ではないし、武器も所持していなかった。
奈良原は、武器も持っていない民間人にいきなり刀で斬りつけているのだ。これが、はたして示現流はすごいことの実例と言えるのだろうか。
なお、このリチャードソン殺害について、薩摩藩は幕府に、
「足軽の岡野新助という者が斬りつけたが、逐電し、行方が知れない」
という旨の報告をした。
岡野新助は架空の人物である。要するに、責任逃れをしたのだ。
さらに、明治10年(1877)の西南戦争がある。
西南戦争は近代戦、つまり銃砲の戦いであり、質量ともに火器でまさる政府軍が終始優勢に戦いを進めたが、唯一の例外が田原坂の戦いだった。
田原坂という特殊な地形から、銃撃戦ではなかなか決着がつかなかった。
そこで、薩摩軍は斬り込み隊を組織して日本刀による斬り込みを敢行し、大きな戦果をあげた。
政府軍はこれに対抗するため、剣術の心得のある警視庁巡査を中心に抜刀隊を組織し、迎え撃った。
田原坂では、示現流を用いる薩摩軍斬り込み隊と、神道無念流や北辰一刀流などの政府軍抜刀隊が白刃をひらめかせ、斬り合いをおこなったのである。
結果は、最終的に政府軍が勝ったのは歴史が示す通りであるが、斬り合いにおいても、政府軍抜刀隊は薩摩軍斬り込み隊と互角に渡り合った。少なくとも、示現流に負けなかった。
示現流は無敵でもないし、最強でもなかったのだ。
【図2】は、田原坂における政府軍抜刀隊と薩摩軍斬り込み隊の斬り合いを描いた錦絵である。

【図2】田原坂の斬り合い。『田原坂撃戦之図』(梅堂国政著、明治10年)、国立国会図書館蔵
なお、政府軍抜刀隊で勇名をとどろかせた憲兵大尉隈元実道は、直心影流の経験者だった。その隈元の著『武道教範』(明治28年刊)に、田原坂の経験について言及がある。
それを読むと、磨き込まれた床の上で防具を身につけ竹刀で打ち合う剣道と、足場の悪い山間地で真剣で斬り合う剣術は、まったく別物であるのがよくわかる。