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信長から厚く「信頼」されていた丹羽長秀

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第85回

■そつのない活躍で「信頼」を得た丹羽長秀

愛知県小牧市小牧4丁目の蟹清水砦跡。同地は信長による小牧山城築城の際に、丹羽長秀の屋敷が置かれた場所と伝わる。小牧・長久手の合戦時には、信雄・家康軍が砦を修復して秀吉軍に対抗した。

 丹羽長秀(にわながひで)は織田家の重臣でありながらも、豊臣秀吉や明智光秀、柴田勝家(しばたかついえ)たちに比べると、方面司令官ではなかったため、一般的には地味なイメージの戦国武将だと思われます。

 

 しかし、長秀は織田家では古参の家臣であり、桶狭間(おけはざま)の戦いなど数々の戦に従軍し、多くの武功を挙げています。

 

 また、安土城の普請奉行を任されるなど行政面や外交面でも活躍し、佐久間信盛たちが追放されると、柴田勝家に次ぐ地位を与えられています。

 

 信長は何事も忠実にそつこなす長秀を、厚く「信頼」していたと思われます。

 

■「信頼」とは?

 

「信頼」とは辞書によると「相手を信じて頼りにすること、またはその気持ちや関係性」とされています。

 

 よく似た言葉に「信用」がありますが、こちらが能力や実績など客観的な情報に基づくものである一方で、「信頼」は人柄や内面に起因して、長期間の関係性によって築かれていくものです。

 

「信用」は合理的な判断によるものですが、「信頼」は感情的な結びつきによって生まれます。

 

 信長は「長秀は友であり、兄弟である」と言ったという逸話が残されるほど、長秀を「信頼」していたようです。

 

■丹羽家の事績

 

 丹羽家は桓武(かんむ)天皇の末裔(まつえい)と称しているものの、尾張丹羽臣を由来とするという説もあり、出自の詳細は不明です。父長政(ながまさ)は、尾張守護の斯波家に仕えていたとされています。1549年に父が亡くなると、兄長忠が家督を継承しました。

 

 長秀は兄とは別で信長に仕え、梅津表の合戦にて19歳で初陣を飾ったとされています。1554年に兄が清州合戦にて戦死したため、次男の長秀が丹羽家を継ぐことになったと言われていますが、これには諸説あります。

 

 長秀は1560年の桶狭間の戦いにも従軍していたとされ、その後も観音寺城の戦いや姉川の戦いにも参加し、活躍しています。

 

 一乗谷(いちじょうだに)の戦いでの功績もあり、近江国佐和山に加えて、若狭一国を与えられています。織田家臣団では初の国持大名となっています。

 

 筆頭家老の佐久間信盛(さくまのぶもり)が本願寺攻めを理由に追放されると、信長から柴田勝家に次ぐ重臣としての扱いを受けるようになります。

 

 方面軍の司令官を任された、柴田勝家や豊臣秀吉たちとは違った立ち位置でありながらも、信長からは重用されていきます。

 

 1582年に長宗我部(ちょうそかべ)家を征討する四国方面軍が結成されると、司令官の織田信孝を支える副将に任じられます。

次のページ■信長と二重の縁戚関係を結ぶほど「信頼」された長秀

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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