意欲的な開発方針が裏目に出た「普通の機体」【コンヴェアF-102デルタダガー】
超音速時代の到来~第2世代ジェット戦闘機の登場と発展~【第8回】
第2次世界大戦末期から実用化が推進された第1世代ジェット戦闘機は、朝鮮戦争という実戦を経験して完成の域に達した。そして研究はさらに進められ、亜音速で飛行する第1世代ジェット戦闘機を凌駕する超音速飛行が可能な機体が1950年代末に登場。第2世代ジェット戦闘機と称されて、超音速時代の幕が切って落とされた。前シリーズに続いて本シリーズでは、初期の超音速ジェット戦闘機(第2世代ジェット戦闘機)について俯瞰してゆく。

ヴェトナムで作戦飛行中の第509迎撃戦闘機中隊所属のコンヴェアF-102デルタダガー。1966年11月の撮影。
アメリカ空軍は激化の一途を辿る東西冷戦下、ソ連の戦略爆撃機による核攻撃からアメリカ本土を防衛すべく、高性能の迎撃戦闘機を求めていた。そして国内の各航空機製造メーカーのプランのなかから、コンヴェア社案が採用された。
当時のコンヴェア社には、第二次大戦終結に際して、敗戦のドイツからアメリカ軍による技術者獲得作戦“ペーパークリップ”によって渡米したアレキサンダー・マルティン・リピッシュが在籍していたが、彼はメッサーシュミットMe163コメートの設計者であり、無尾翼機やデルタ翼機のスペシャリストであった。
そこで、コンヴェア社のデルタ翼機の前作であるXF-92に続く超音速デルタ翼機、アメリカ空軍の100番台の戦闘機“センチュリー・シリーズ”の1機種となるYF-102として開発が進められた。
実験機を示す「X」接頭記号を持つ機体を省いて試作機「Y」の接頭記号から開発が開始されたのは、XF-92のデータがかなり流用できるという「読み」に基づき、開発の時間短縮とコスト削減のため、あらかじめ基礎的な生産ラインを準備しておき、Y接頭記号を持つ試作機から得たデータをフィードバックしながら量産をおこなうクック・クレイギー・プランが採用されたからだった。
ところが当初のYF-102の機体形状では音速を越えられなかった。そこで急遽、当時発見されたばかりのエリアルールを胴体設計に導入。水平飛行でかろうじて音速を越えられるようになった。
こうして完成したF-102はデルタダガーと命名されて量産が開始されたが、胴体設計の変更と、それにともなう各部の設計変更が重なって生産ラインの大幅な変更が必要となり、クック・クレイギー・プランの採用が、かえって余計な支出を招くという逆の結果となった。
F-102は銃器を搭載せず、核弾頭装備型も含めた空対空ミサイルと、空対空無誘導ロケット弾で武装していた。しかしアメリカ空軍は迎撃戦闘機としての本機に満足せず、のちに後継機のコンヴェアF-106デルタダートに加えて、マクドネルF-101ヴードゥーも迎撃戦闘機として採用している。
F-102は、アメリア本土防空だけでなくヨーロッパや日本にも配備され、ヴェトナム戦争にも参加した。特に興味深いのは、ボーイングB-52ストラトフォートレスによるヴェトナム爆撃作戦“アークライト”の護衛に出撃したF-102のうちの1機が、MiG-21フィッシュベッドが発射したアトール赤外線誘導空対空ミサイルによって撃墜されたことだろう。ちなみにアトールは、アメリカ製のサイドワインダー赤外線誘導空対空ミサイルのコピーである。
なお、戦闘機型F-102のアメリカ空軍からの退役は1976年であった。