調子に乗って「皇位継承問題」に口を挟み自滅した英雄とは? 源頼朝に先駆けて京を制圧したはずだったのに…
忖度と空気で読む日本史
平家を都から追い落とし、従兄弟の源頼朝に先んじて上洛を果たした木曾義仲。「朝日の将軍」と称えられ、京の武家社会の第一人者となりながら、わずか半年で没落したのはなぜだったのか。背景には貴族社会の“空気”を読めない田舎武者の悲劇があった。
■以仁王の遺児を迎えて挙兵の大義名分を得た義仲
治承5年(1180)4月、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)が平家討伐を呼びかける令旨を諸国の源氏に発した。まもなく王は平家に討ち取られたが、令旨は各地の源氏に届けられ、伊豆の源頼朝、信濃の木曾義仲、甲斐の武田信義らが次々と挙兵、内乱は全国に拡大する。治承・寿永の内乱、いわゆる源平合戦の始まりである。
数ある源氏の中で、いち早く上洛をはたしたのが木曽義仲であった。
義仲は源義賢(義朝の弟)の次男である。2歳の時、義賢が武蔵大蔵館(埼玉県比企郡嵐山町)で悪源太義平(義朝の子、頼朝の兄)に殺害されたため、信州木曽の豪族・中原氏にかくまわれ、以後25年間、同地で暮らした。
治承5年9月、乳母子の今井兼平(いまいかねひら)や愛妾・巴御前らとともに木曽谷を出撃した義仲は、市原の戦いで笠原頼直(かさはらよりなお)を破り、翌年、横田河原(よこたがわら)の戦いで平家の有力家人・城氏の大軍を撃破して越後に進出。北陸道を席巻して越前まで勢力を伸ばした。
その義仲のもとに予想外の賓客が現れたのは寿永元年(1182)8月のことである。奈良にかくまわれていた以仁王の遺児(北陸宮/ほくろくのみや、当時18歳)が、義仲を頼ってひそかに越前に来たのだ。義仲は喜んでこれを迎え、越中国宮崎(富山県下新川郡朝日町)に御所を定めたという。
北陸宮こそ以仁王の遺志を継ぐ正統の後継者である。宮を錦の御旗とすることで、義仲は反逆者の地位を脱し、挙兵の大義名分を得たのだった。そしてそれは、以仁王の令旨のみを挙兵の根拠とするライバルの頼朝より優位に立つことをも意味した。
元来、義仲には平家に対する恨みはない。恨むべきは義賢を殺害させた伯父・義朝やその嫡子・頼朝であったはずだ。頼朝に先んじて上洛し平家を破ることで、源氏の棟梁の地位を確立することが義仲の悲願だったと思われる。
勢いを得た義仲は、破竹の勢いで進撃し、寿永2年(1183)7月、平家を追い落として京を制圧。後白河法皇から平家追討を命じられた義仲は、無位無官の身から一躍、従五位下左馬頭兼伊予守となり「朝日の将軍」の称号を得た。
■北陸宮の即位を主張し、宮廷社会の大ヒンシュクをかう
この時の義仲はおそらく得意の絶頂にあっただろう。しかし、まもなく持ち上がった皇位継承問題で大失敗をしでかす。
平家の都落ち後、朝廷で安徳天皇に代わる新帝の擁立が議題となった。法皇は高倉天皇の第3皇子と第4皇子を候補にあげたが、そこへしゃしゃり出たのが義仲である。「平家を都から落とした功績は、北陸宮のお力によるものです。即位に異議をさしはさむべきではありません」と述べ、宮の即位を強硬に主張したのだ。
当時、皇位の決定権は天皇家の家長である治天の君(ちてんのきみ/院政を行う上皇)が握っており、それこそが院政権力の源泉であった。それをこともあろうに、一介の下級貴族にすぎない義仲が口をはさんだのである。
あまりにも空気の読めない義仲の提案に対し、法皇は怒り心頭に発したが、荒武者を刺激するのは得策ではないと考え、義仲と親しい僧侶を通じて「文をもって治めるのがわが国の習い。即位もしていない以仁王の子を求めるのは神慮にも背くことになるでしょう」と諫めた。
しかし義仲は納得しない。そこで、今度は貴族たちがイカサマの占いを行い、四宮が第1、三宮が第2、北陸宮が第3とする結果をでっちあげた。神のお告げとして言いくるめようとしたのだが、義仲の不満は治まらず「郎従らと相談し、改めてご意見を申し上げましょう」と貴族たちを威嚇した。
結局、後白河は義仲の要求を突っぱね、意中の第4皇子(後鳥羽天皇)を即位させたが、忖度しない義仲の頑なな態度は、法皇や貴族との関係に深刻な亀裂を生じさせる結果となった。
義仲の失態はそれだけではなかった。当時、京では養和の飢饉(ようわのききん)の直後で食糧が不足しており、武士による略奪や暴行が相次いだが義仲は何の対策もとらず、都人の不評をかった。また、義仲自身の立ち居振る舞いの武骨さ、粗野な話しぶりは貴族たちの反感をかい、牛車の乗り方が分からず牛飼いにまで馬鹿にされる始末であった。
法皇との関係も悪化の一途をたどり、ともに入京した武士たちも次々と義仲のもとを離れていった。
追い込まれた義仲は、寿永2年11月、院御所・法住寺殿(ほうじゅうじどの)を焼き討ちして法皇を幽閉した。だが、この暴挙が頼朝に上洛の大義名分を与える結果となり、源範頼・義経率いる鎌倉軍の攻撃を受けて義仲は滅亡する。
貴族社会に忖度せず、自己流を押しとおした武士の哀れな最期であった。

都立中央図書館蔵