登山中の学生らを執拗に襲ったヒグマとの攻防 「福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件」とは?
歴史に学ぶ熊害・獣害
北海道はもちろん、本州でも東北を中心とする各地で熊の目撃情報や被害が報告されている。筆者自身も登山を趣味としているが、夏山のシーズンに入ってアルプス周辺でも登山道付近で熊が目撃されたり、近くを通ってしまったりするケースがSNSでも多く報告されるようになった。
7月某日、北アルプスのとある登山道を友人と登っている際、遠くから叫び声のようなものがした。しばらく進むと5~6人の男女の集団と遭遇。彼らは「上で熊を見かけた。150mほど追いかけられた人もいたらしい」と教えてくれた。その時脳裏をよぎっていたのは、登山中の熊害事件では日本史上最も有名といっても過言ではない「福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件」である。もちろん地域や熊の種類の違いはあれど、山を愛した若者らが犠牲になった痛ましい事件だった。
「福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件」は、昭和45年(1970)7月に、北海道にある日高山脈・カムイエクウチカウシ山で起きた熊害事件である。カムイエクウチカウシ山は、アイヌ語で「熊(神)の転げ落ちる山」に由来する。標高1979mで、日高山脈では第二の高峰だ。
同部に所属していた5人の内訳は以下の通り。リーダーA(20歳)、サブリーダーB(22歳)、そしてC(19歳)、D(19歳)、E(18歳)である。5人は夏季合宿として日高山脈の縦走を企画した。
ヒグマが最初に現れたのは7月25日のこと。5人は札内川上流にある九ノ沢カール(標高1,900mあたり)でテントを張った。するとしばらくしてヒグマが現れた。様子をみていると、ヒグマは荷物を漁りだした。5人は火を焚いたりラジオを大ボリュームに流したりして追い払おうと試み、実際30分ほどしてからヒグマの姿が見えなくなった。
ところが、21時頃にヒグマが再び現れ、テントにこぶし大の穴を開けた。そこで5人はラジオを流しっぱなしにし、交代で見張りをたてて夜を明かすことにした。26日早朝、ヒグマが再びテントを襲撃。これで3回目である。出発のために準備を進めていた5人は、テントに侵入しようとするヒグマに対抗して内側から必死でテントの幕とポールを押さえ、5分ほど引っ張り合う形になったという。やがてリーダーAの指示で、反対側の幕を開けて5人は一斉に逃げ出した。約50m逃げたあたりでテントを振り返ると、ヒグマはテントを押し倒し、中に置き去りになっていたザックを漁っていた。
ここでAはBとEに下山して救助を要請するよう指示。2人は下山中に別の大学のグループと遭遇し、ハンターの出動要請を依頼すると残してきた3人を助けるべく戻ることにした。5人は昼頃に合流し、その日のテント設営地を決めて夕食づくりやテントの修繕に取りかかった。ヒグマがまたも5人に襲いかかってきたのは、16時30分頃のことである。
5人は別の大学が八の沢カールにテントを張る予定と聞いていたため、そこを目指して稜線から下っていった。しかし、しばらく下ったところでヒグマが彼らに追いつく。後方約10mのところまで迫っていたのだ。ここで5人のうちEが絶命し、Cがはぐれてしまう。残った3人は岩場で夜を明かした。
次にヒグマが現れたのは、27日の朝のことだ。3人は8時頃から行動を開始したが、間もなくヒグマが襲いかかってきた。ここでAがヒグマを押しのけるように抵抗し、1人逃げ去っていく。残ったBとDは五の沢方面にある砂防ダムの工事現場に辿り着き、無事保護されるに至った。
28日には日高山脈中部の入山が禁止され、救助隊が編成される。翌29日にはAとEの遺体が発見され、さらに30日にはCの遺体も発見された。そして彼が残したメモがこの事件の顛末を明らかにする大きな手掛かりとなる。3人の遺体はいずれも損傷が激しく、天候が悪いせいでなかなか下せないという事情も重なって、八の沢カールにて火葬されることになった。
5人を襲ったヒグマは29日中に射殺され、はく製にされて日高山脈山岳センターの中に展示されることとなる。また、八の沢カールには慰霊碑があり、今もこの地で起きた悲劇を伝えている。
この事件については「荷物を取り返してしまったのが原因」や「すぐに下山しなかったことが最悪の結果に繋がった」などと議論されてきた。しかし、そもそも当時このエリアでヒグマが人を襲うという例がほとんどなく、音を出すなどすれば逃げていくという認識だったことも指摘されている。たとえそうでなかったとして、誰が5人を責められるだろうか。いざ自分たちに牙をむく熊と遭遇したとき、常に冷静かつ完璧な行動をとれる人がどれくらいいるだろうか。
各地で熊の被害が報告される今、私たちは歴史における熊害を知り、改めて「山中での熊との遭遇は命に直結する」と胸に刻まなければならない。レジャーや登山の前には現地のリサーチを徹底し、危険と判断される場合はぜひ予定変更を検討していただきたい。

カムイエクウチカウシ山稜線から見た八の沢カール/PIXTA
<参考>
■『日本クマ事件簿』(三才ブックス)
■羽根田治『人を襲うクマ』(山と溪谷社)