朝ドラ『あんぱん』「手のひらを太陽に」は史実でどのようにして生まれた? 幼少期の思い出とルーツが関係した誕生秘話
朝ドラ『あんぱん』外伝no.66
NHK朝の連続テレビ小説『あんぱん』は、第20週「見上げてごらん夜の星を」が放送された。嵩(演:北村匠海)は未だに漫画家として成功を手にできておらず、心のどこかで焦りを感じていた。そんな時作曲家・いせ たくや(演:大森元貴)が嵩に歌詞を書いてほしいと依頼してくるが、嵩は「自分は漫画家だから」と乗り気ではない。しかし、のぶ(演:今田美桜)が懐中電灯に手をかざしたのをきっかけに、嵩の頭に「手のひらを太陽にすかしてみれば…」のフレーズが浮かぶ。今回はあの名曲について、史実での誕生秘話をお届けする。
■かつての「レントゲンごっこ」を思い出し……
34歳で三越百貨店を退職し、晴れて漫画家として本格的に活動し始めたやなせたかし氏だったが、その後は漫画家としてなかなか芽が出ない日々が続いた。40代に入っても、代表作や象徴的なキャラクターを生み出すことができず、やなせ氏自身はやるせない気持ちを抱えていたという。
漫画家として細々と活動する一方、芸能人へのインタビューを主に行うライターとして働いたり、ミュージカル「見上げてごらん夜の星を」をはじめ舞台美術の分野で才能を発揮したり、色々な仕事を受けていた。そういう点では、やなせ氏自身のマルチな才能が存分に発揮されていたわけだが、ご本人としてはやはり漫画で売れないことには……と苦悩する時期でもあった。
さて、庶民の娯楽はテレビが主流になり、民放のテレビ局が続々と開局。じつはやなせ氏はそうしたテレビ関係の仕事も請け負っていて、ほとんど全ての局で初期の番組に多少なりとも関わっていたという。
昭和36年(1961)、42歳になっていたやなせ氏は、漫画の仕事が激減したことに悩んでいた。もちろん、民放ラジオやテレビ関連など漫画以外の仕事は定期的に入ってきていたため生活には困らなかったが、「独立漫画派」で繋がった仲間たちが次々と大成していくなか、取り残されたような気持ちだったという。
そんな時期にやなせ氏が自宅の仕事場でしていたのが、詩を書くことだった。切羽詰まっていたわけではないが、ほぼ徹夜で取り組むこともあったという。ある日、退屈だったためにふと懐中電灯を自分の手のひらに当ててみた。これは、幼少期にした「レントゲンごっこ」を思い出したがゆえの行動だったそうだ。ここで思い出していただきたいのだが、やなせ氏の育ての父と言える伯父・寛さんは、故郷で柳瀬医院を経営していた医師である。一般の家庭では「レントゲンごっこ」という発想自体が出てこないだろうが、こういうところにやなせ氏のルーツが活きていた。
そのレントゲンごっこで、自身の手のひらの血の色が驚くほど赤く、その美しさにしばし見とれてしまったのだという。その時に浮かんだのが、「手のひらを太陽にすかしてみれば」というフレーズだった。
翌昭和37年(1962)、やなせ氏は知人のディレクターからの依頼でニュースショーの構成を担当することになった。ニュースショー自体はそれほど話題にならなかったものの、その“副産物”となった「手のひらを太陽に」という歌は、作詞をやなせ氏、そして作曲をいずみたく氏が担当して誕生。やなせ氏曰く、当時は爆発的な大ヒットとは言えなかったようだが、知らず知らずのうちに誰もが知る有名な歌に成長していったのだという。
今や誰もが一度は耳にしたことがある名曲は、漫画家としての苦悩の時期に、幼い頃の遊びをふと思い出したことから生まれたのだった。

イメージ/イラストAC
<参考>
■やなせたかし『アンパンマンの遺書』(岩波現代文庫)
■やなせたかし『人生なんて夢だけど』(フレーベル館)