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歌舞伎役者と大奥御年寄の密会疑惑で江戸城が大騒ぎ! 「江島生島事件」の裏に潜んでいた陰謀

日本史あやしい話


今は亡き6代将軍家宣の側室・月光院の名代として墓参りに出かけた大奥御年寄の江島。その帰路、歌舞伎見物に加えて、茶屋へと出向いてしまったことで、大奥の門限に間に合わなかった。たったそれだけの理由なのに、本人は高遠藩にお預けとなったばかりか、斬首や遠島などを含め、総勢千数百人もの関係者が罪に問われた。表向きは綱紀粛正のためというが、実のところは、幕閣同士の派閥争いによるものだった可能性も。いったい、どのような争いだったのだろうか?


 

■歌舞伎役者との宴が長引いて門限に間に合わず

 

 江島生島事件という江戸城大奥に巻き起こった一大スキャンダルをご存知だろうか。大奥の実力者である御年寄・江島(絵島)なる女性が、前将軍・家宣の墓参りの後、芝居見物に興じる余り帰城が遅れて門限に間に合わなかったことに端を発する出来事であった。たったそれだけの理由にもかかわらず、死罪や流罪を含め、総勢一千数百人もの関係者が罪に問われたというから不思議。むしろ不可解というべきだろうか。ともあれ、まずは事件当日から振り返ってみることにしよう。

 

 事件が起きたのは、正徳4(1714)年1月12日のことであった。江島とは、今は亡き6代将軍家宣の側室・月光院に仕えていた女性である。彼女が、月光院の名代として家宣の墓参りのために、徳川家の菩提寺・増上寺へと出かけたのが、そもそもの始まりであった。その途上、懇意にしていた呉服商・後藤縫殿助に誘われて、木挽町(現在の銀座界隈)にあった芝居小屋・山村座へと向かったことが間違いの元であった。

 

 観劇の後、すぐに帰れば門限に間に合っていたのだろうが、茶屋へと足を伸ばしてしまったのがいけなかった。

 

 実はこの女性、当時一世を風靡していた人気歌舞伎役者の生島新五郎に首ったけで、このイケメンを侍らせたことで、ついつい長居してしまったのだ。大奥の門限は暮れ六つ(午後6時)というから、到底間に合うはずがないことも、頭にあったはずである。それにもかかわらず、茶屋に出向いたというのは、何とかなるだろうとたかをくくっていたからに違いない。門番にちょいと口止め料を握らせれば、す〜っと通してくれるはずとの思惑があったのかも。

 

 ところが、この日の門番は袖の下など見向きもせず、頑なに「通せぬ!」の一本やりであった。通せ!通せぬ!の押し問答が続くうちに、いつしか城内に知れ渡ることに。こうなってしまっては、江島の目論見もオジャン。とうとう評定所での審議となり、江島をはじめ、前述のごとく、実に多くの関係者が罪に問われることになってしまったのだ。

 

 この時問題となったのは、江島と生島との密会、つまり男女関係の有無であった。江島は捕縛された後拷問にかけられたものの、頑なに口を閉ざして自白することはなかった。となれば、密会が事実だったかどうかは証明できぬまま。それにもかかわらず、江島に遠島との裁決が下されたというのは不思議というべきか。この時は、月光院の嘆願によって減刑されたものの、信濃高遠藩へのお預けと確定している。

 

 一方、生島は三宅島への遠島、山村座の座元も伊豆大島へ遠島という厳しい処罰が下された。さらに、当事者ではなかったにもかかわらず、江島の異母兄にあたる白井勝昌までもが、監督不行き届きの責任を問われてしまった。驚くことに、当の本人よりも重い斬首という極刑に処せられたのである。勝昌こそ、とんだとばっちりというべきか。その他、山村座は廃座、他の芝居小屋まで巻き込まれて、夕刻の営業が禁止されている。

 

■新井白石や間部詮房の追い落としが狙い?

 

 前述したように、たかだか、役者と宴に同席したことで門限に遅れたというだけであったにもかかわらず、千数百人もの関係者が処罰されたというのは、どう考えても不可解である。仮に密会が事実だったとしても、二人だけを処罰すれば良さそうなものを、なぜここまで多くの人を処罰したのか?何やらそこにキナ臭いワケがありそうだと勘ぐるのは筆者だけではあるまい。

 

 ちなみに表向きは、大奥の規律の緩みが明らかとなったからというものであった。綱紀粛正を目的としての処罰となれば、それなりに理由が成り立つからである。でも、本当に理由はそれだけだったのだろうか。処分された関係者の数の多さと処罰の大きさを踏まえれば、とても理由がそれだけとは考え難いのだ。

 

 よく流布されるところとしては、6代将軍家宣の正室・天英院と家宣の側室で7代将軍家継の生母でもある月光院の対立説である。大奥での順位は、一応、天英院(従一位)が首座で、月光院(従三位)は次席となっているものの、実際には、月光院が贔屓にしていた儒学者の新井白石や側用人の間部詮房らが幕政を主導していたため、月光院の影響力の方が優っていたようである。となれば、月光院の失墜を狙った天英院側の陰謀によるものとの説が頷けるのだ。ただし、裏付けとなる証拠があるわけもなく、単なる憶測にすぎないと否定する向きも少なくない。しかも、本人同士は、必ずしも仲が悪かったわけではないと見られることもあるから尚更である。

 

 それでも、本人同士は別としても、両者を取り巻く幕閣たちによる派閥争いがあったのは、おそらく間違いないだろう。新井白石や間部詮房の活躍(正徳の治と呼ばれる政治改革)によって蚊帳の外に置かれた幕閣らが、天英院に与して月光院派の追い落としを画策したと考えるのが自然である。そこに降って湧いたように、月光院側の関係者による不祥事が発覚したわけだから、天英院派にとっては好機到来。事件の重大さを殊更喧伝して、彼らを重罪人に仕立てようとしたと推測できるのだ。そのためには、江島と生島が密会したことにするのが一番(つまり冤罪)。それでこそ、綱紀粛正を名目として敵対する勢力の追い落としが可能となるからだ。

 

 ちなみに、5代綱吉、6代家宣、7代家継の三代の歴史を記した『三王外記』によれば、月光院と間部詮房の艶聞までもが記録されているが、これもまた彼らを陥れるために仕立て上げられたとも考えられそう。

 

 その真偽のほどは明確ではないが、新井白石と間部詮房らが、事件の後、共々失脚しているのが気になるところ。まるで天英院派による陰謀説を裏付けているかのようだからである。

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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