×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画
歴史人Kids
動画

ヒグマが母と子を食い尽くし、討伐に向かった男も行方不明に… 死者4人を出した「石狩沼田幌新事件」はなぜ起きたのか?

歴史に学ぶ熊害・獣害

 最近、日本各地で熊による被害が相次いでいる。約110年前、大正4年(1915)に北海道の開拓地で起きた「三毛別(さんけべつ)ヒグマ事件」は日本史上最悪の熊害としてあまりにも有名であるが、大正期には他にも凄惨な事件が起きていた。今回は前編に引き続き、事件発生後の顛末まで取り上げる。

 

 「石狩沼田幌新事件」は、三毛別ヒグマ事件から8年後の大正12年(1923)に発生した事件で、4名もの死者が出てしまった熊害事件である。

 

 8月21日、祭の帰り道で村田一家(父・母・兄・弟の4人)と当時19歳の青年が突然現れたヒグマに襲われた。青年・林謙三郎さんが最初に背後から襲われ、大声で危険を知らせるも、その後13歳の幸次郎さんが一撃を受けて即死し、15歳の與四郎さんも攻撃を受けた。幸次郎さんはその後ヒグマに食われた。

 

 近くの農家に逃げ込んだ父母だったが、父は戸を必死で押さえたものの戸ごと押し倒されて重傷を負い、母は戸外に残された子どもを心配して外に出ようとしたところでヒグマに捕まり、そのまま山中に引きずられていった。後年、與四郎さんが残した証言によると、「怖い」「痛い」という声のあとに、ヒグマが母の体を食いつくす「ガリ、ガリ」という音が聞こえたという。

 

 逃げ込んだのは農家だったため、銃などもなく、重傷の父や與四郎さん、その家の住人らはそのまま息をころして夜明けを待つしかなかった。

 

 翌朝、近くを通りかかった村民に対して一同は必死で助けを求め、ようやくこの惨劇が知れ渡ることになったのである。さらにその翌日の23日には、凶悪なヒグマを討伐すべく、近隣の集落から数人の狩人が集まった。そのうちの1人が、当時56歳の長江政太郎さんである。正義感の強い長江さんはこの悲劇を聞きつけると、周囲の反対を押し切って山に乗り込んでいった。しかし、その後山から数発の銃声が届いたものの、長江さんは行方不明になってしまう。

 

 さらにその翌日、総勢300人にのぼる応援部隊がこの地区に到着。地元集落の男たちも総出でヒグマ退治に乗り出した。一行が山に入った途端、ヒグマが現れ、一行の最後尾にいた人間を一撃で撲殺。さらにもう1人にも襲いかかって重傷を負わせた。咆哮をあげながら次々に討伐隊を襲おうとしたヒグマだったが、さすがにこの時は多勢に無勢。討伐隊の1人が放った銃弾が命中し、ひるんだ隙に一斉射撃を浴びせると、ついにそのヒグマはこと切れた。

 

 その現場の付近で、前日に行方不明になった長江さんが変わり果てた姿で発見される。遺体は頭部を除いて食い尽くされ、すぐそばに折れた銃が転がっているという凄惨な現場だった。

 

 この事件は、4名の死者と4名の重傷者を出す大惨事となった。ヒグマは体長約2m、体重約200kgの雄で、解剖された時に胃から大量の人骨や未消化の人の指が見つかっている。ではなぜこのヒグマがそもそも一行を襲ったのか。北海道新聞社『ヒグマ』によると、祭帰りに一行が襲われた現場の近くには馬の死体が埋められていたらしい。ヒグマはこの馬を自分の食糧と認識していて、そこに近づいた一行を敵とみなした可能性が高いというのだ。あくまで可能性ではあるが、熊の「執念」の恐ろしさを物語る背景である。

 

 熊が人を襲ったというニュースが飛び込むことが増えた昨今、これからレジャーシーズン最盛期を迎えるが、特に山などでは熊に注意しなければならない。「熊出没注意」などと看板があるエリア、もしくは目撃情報があるエリアには、それなりの「理由」があるものだ。熊害の歴史からその執念深さや恐ろしさを学び、事前のリサーチと万全の対策を怠らずに自分の身を守ることに繋げていただけたらと願う。

ヒグマのはく製/写真AC
※本件とは関わりがないヒグマ

KEYWORDS:

過去記事

歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

最新号案内

『歴史人』2025年10月号

新・古代史!卑弥呼と邪馬台国スペシャル

邪馬台国の場所は畿内か北部九州か? 論争が続く邪馬台国や卑弥呼の謎は、日本史最大のミステリーとされている。今号では、古代史専門の歴史学者たちに支持する説を伺い、最新の知見を伝えていく。