与党が職権を濫用して野党の選挙活動を妨害!? 大正~戦前では当然だった「選挙干渉」とは
■内閣が与党候補者を贔屓、野党候補者を妨害するのが当たりまえだった
大正14年(1925)に制定された「普通選挙法」では、日本国籍を有する満25歳以上の全ての成年男子に選挙権を与えるというものだ。これによって、有権者数は約4倍に跳ね上がることになった。
そして第1回普通選挙(第16回総選挙)が、昭和3年(1928)に行われる。しかし、投票率80%超を記録したこの記念すべき選挙は、時の田中義一内閣による野党への選挙妨害はもちろん、選挙法に規定された選挙費用を遥かに上回る支出や買収など、公正とはほど遠い泥沼の選挙になったのである。
大正~昭和を通じて選挙に常につきまとっていたのが、「選挙干渉」だ。政党内閣による与党候補者への資金援助や手厚い支援と野党候補者に対する厳しい取り締まりは、当たり前のように行われていた。
第1回普通選挙でも、それが大問題になっている。時の田中義一内閣において、司法省出身で法相の経験もある内務大臣・鈴木喜三郎は野党の民政党に同調しそうな各県知事や内務部長、警察署長らを多数更迭・異動させ、代わりに与党・政友会派の人間を配置したのである。
これによって、警察を中心に野党候補者やその支援者への干渉が行われた。警察関係者が野党の候補者を尾行したり、選挙事務所に張り込むなどして、少しでも選挙法に反するようなことがあればすぐに検挙・起訴した。当時選挙法違反などどの党でも当然のように行われていたにも関わらず、である。実際、投票日までに検挙された人数は民政党が突出しており、1701人にのぼる。また、演説を中止させたり、ビラを押収するなどの妨害行為も頻繁に行われていたという。
そこまでして民政党や無産諸党の妨害をしたにも関わらず、議席としては与党・立憲政友会が 217議席、野党第一党・立憲民政党 が216議席を獲得するという結果に終わった。わずか1議席しか変わらない。
選挙後、田中内閣による選挙干渉は厳しく糾弾された。とくに鈴木内相の行き過ぎた選挙干渉は非難を浴び、辞任に追い込まれている。
田中内閣が総辞職した後に成立した立憲民政党の浜口雄幸内閣では、選挙革正審議会を設立するなどしてこの状況の打開を図ったが、今度は民政党による選挙干渉が起こり、しかも選挙活動における買収行為は拡大した。結局、腐敗しきった選挙の在り方は変えられず、時を経て選挙粛正運動の盛り上がりに繋がっていく。

イメージ/イラストAC
<参考>
■筒井清忠編著『昭和史研究の最前線 大衆・軍部・マスコミ、戦争への道』(朝日新聞出版)
■杣正夫「一九三四(昭和九)年衆議院議員選挙法の改正(一)」