父親と同年代の男に身請けされた「誰袖花魁」 1200両の大金を積まれて「3番目の妻」になる
大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第27回「願わくば花の下にて春死なん」が放送された。松前道廣(演:えなりかずき)は、一橋治済(演:生田斗真)に田沼意次(演:渡辺謙)が蝦夷地の上知を進めていることを訴える。巷では田沼の政治への不満が高まっており、田沼意知(演:宮沢氷魚)が誰袖(演:福原遥)を身請けする話がなくなるかもしれないと聞いた蔦重(演:横浜流星)は、意知に直談判。しかし、意知は既に土山宗次郎(演:栁俊太郎)の妾という名目で身請けを進めていることを明かす。さて、意知と誰袖のラブストーリーはフィクションであり、史実では土山宗次郎に正式に身請けされている。今回はその背景を紹介する。
■“当代一の花魁”として名を馳せた誰袖花魁の身請け話
誰袖花魁は、吉原の大見世「大文字屋」の花魁として実在した人物である。大文字屋自体は吉原のなかでは新興勢力だったが、この頃には十分格式ある妓楼として名を馳せていたようだ。誰袖は「呼出」という最上級のランクの遊女で、当時の大文字屋の稼ぎ頭だった。美しいことは言うまでもなく、花魁に求められる教養も申し分なかったようだ。当時流行していた狂歌も詠みこなし、武家の男から文化人まで幅広い客を虜にした。
一方の土山宗次郎とはどのような人物か。土山は旗本の家に生まれたが、生年は諸説ある。有力なのは元文5年(1740)だ。土山の人生が好転していくのは、田沼意次が老中に就任してからのことである。安永5年(1776)には、幕府の財政や農政を担当する勘定組頭に登用される。
土山は勘定組頭として頭角を現す一方、狂歌をたしなみ、大田南畝をはじめ狂歌師らとも積極的に交流する文化人としての一面も持っていた。大田南畝の随筆『一話一言』や日記『三春行楽記』などには、土山邸で宴を行った時のことや、贈り物のやりとりがあったことなどが記されている。
さて、幕府が寛政年間に編纂した大名や旗本の家譜集『寛政重修諸家譜』によると、土山の妻は日下部七十郎の娘だという。『寛政重修諸家譜』には「御徒日下部七十郎女」とあるので、下級武士の家の娘だったのだろう。
しかし、土山にはまた別の「妻」がいた。『天明大政録』には、「妻は吉原遊女にて千両にて請出し候由、先妻も同様のものにて七百両にて請出し候」とある。つまり、「先妻」も遊女であり、700両で身請けして妻としていたのだ(最初の妻とは死別か離縁していたか)。しかしこの先妻に関しては「不義致し候故二百両金附候て縁付遣し」と記されている。
よって、誰袖は3人目の妻ということになる。土山が誰袖を身請けしたのは、天明4年(1784)春頃のことだと考えられている。身請けのための金はもちろん、祝儀なども合わせて1200両が支払われたという。これは、5代目瀬川が鳥山検校に1400両で身請けされたのに次ぐ大金で、江戸中で話題になった。この時土山は数えで45歳である。遊女は大体27歳前後で年季明けとなる原則があったこと、そして誰袖が人気の絶頂にあった花魁であることなどを踏まえると、誰袖は20歳そこそこだったと考えられる。20歳以上、つまり父と娘ほどの年の差があったことは間違いないだろう。
しかし、瀬川と同様に、土山と誰袖の結婚生活も長くは続かなかったのである。土山がその中枢で活躍する“田沼政権”の崩壊が徐々に迫っていた……。

歌川国安が描いた「大もんしや内」「誰袖」。「瀬川」同様、「誰袖」も大文字屋を代表する花魁が名乗っていた。
東京都立中央図書館蔵