『べらぼう』恋川春町と江戸出版戦争に学ぶ“嫉妬と劣等感”の活用術とは!? 「アドラー心理学」で読み解く大河ドラマの人間模様
「俺は——戯(たわ)けることに向いておらぬのだっ!」
宴席で悪態をついた恋川春町は引き籠もっていた。旗本、そしてヒットメーカーとしての誇り。そこに新鋭・北尾政演(山東京伝)に後れを取ったと悟った瞬間、春町の心を突き刺したのは、刀より鋭い劣等感だった。
オーストリアの心理学者アルフレッド・アドラーは、劣等感を「成長のための原動力」と呼んでいる。暗い音色の鐘だが、その振動はしばしば新しい物語の胎動になる。江戸出版界をにぎわせた“男の嫉妬”が、いかにして文化の火花を散らしたのか。春町の心の迷路をたどりながら、その行き着いた先をのぞいてみよう。

狂歌の作者として酒上不埒を名乗った恋川春町。絵は北尾政演によるもの(メトロポリタン美術館蔵)
■売れっ子作家が直面した「劣等感との対峙」
春町は旗本屋敷に勤める傍ら、黄表紙『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』で町人たちを笑わせたスター作家だ。武士社会で求められるのは家名を守る礼節、出版界で物を言うのは売り上げと評判。この二つの物差しに同時に計られる日常は、優越を求めれば求めるほど、劣等感が深まる踏み車でもあった。
番付で政演の『御存商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』が首位を奪い、宴席がその話題で湧いた夜。『御存』が春町作の『辞闘戦新根(ことばたたかいあたらしいのね)』を下敷きにしていたことが気に食わない春町は、政演を盗人と罵り、狂歌で毒づき、ついには筆を折ってしまう。そして後日現れた蔦重からの画付け依頼にも「戯けることに向いていない」と突っぱねるのであった。
これはアドラー心理学でいう“自己防衛策(Safeguarding)”——負けが確定する前に戦場を降り、自己を守ろうとする行為である。たとえば成果が出なかった時に「体調が悪かったから」と言い訳を用意したり「どうせ自分には無理だ」と始めから挑戦を放棄したりするのも自己防衛策のひとつだ。人より優れていたいと思うのは人の常だが、春町のように完璧主義でナイーブな者は特に「失敗=無能」と証明されるのをひどく恐れる傾向にある。
しかし己の弱さに直面した時こそ、人は成長する。「先に食ってかかったのは先生のほう」と蔦重に正論をぶつけられ、春町は己の非を認めるしかなかった。しかし啖呵を切ってしまった手前、のこのこと詫びを入れにいくのも面子が許さない。
一人悶々とする春町を救ったのが、喜三二と歌麿だ。「俺は春町先生の絵、好きですよ」「おもしれぇから真似したがんだよ」。二人の言葉は春町の自尊心をくすぐり、嫉妬で凍てついた心を溶かしてゆく。春町はふと、自分は孤独な敗者ではなく、同じ船に乗った仲間の一人だと気づいた。「俺のような辛気くさい男がいてよいのか」——この時、春町の根底にうずいた心理こそ、アドラー心理学の神髄“共同体感覚(Community Feeling)”だ。
共同体感覚とは家族や職場などの中で「自分は役割を与えられている」といった“所属感”がある状態のことで、幸福感の素でもある。この共同体感覚が養われていなければ「自分は求められていない」などと他者不信になり、孤立感を深めるばかりになる。
どんな天才でも、一人では生きることはできない。春町は喜三二と歌麿に存在承認されたことで、果たすべき使命、己の本心を、再確認することができた。
耕書堂に向かい蔦重に詫びを入れようとする春町に、蔦重は「皮肉屋の恋川春町」という新ブランドを提案した。そして春町が見せた自虐交じりの奇妙な“作り文字”をもとに、吉原を舞台に物語に仕立てようと勧める。
自分はもう「ひとり」ではない。春町は蔦重の助け船に乗って、再び筆をとった。こうして青本『廓𦽳費字盡(さとのばかむらむだじづくし)』が世に誕生したのであった。
劣等感を創造エネルギーへと見事昇華してみせた春町。劣等感を原動力に——アドラーはこれを“補償行動(Compensatory Behavior)”と呼んでいる。
年の瀬、蔦重が開いたねぎらいの宴で政演は、春町の新刊を手に「こっちがよかった」と珍しくやっかんだ表情を浮かべた。その様子に春町は「そなたの費字盡が、俺は読みたい。盗人呼ばわり、済まなかった」と頭を下げた。二人の間のわだかまりはようやく解け、春町は己の殻を破るがごとく、褌一丁になって踊り狂う。戯作者・恋川春町は、皮肉屋の狂歌師「酒上不埒(さけのうえのふらち)」として、新たなスタートを切ったのだった。
江戸の出版戦争は、嫉妬と劣等感を抱いた男たちが弱さに向き合い、限界を突破し、補償行動で腕を磨き、最後は読者という大きな共同体へと貢献した歴史でもあったといえるだろう。それはもちろん、この時代の話だけではない。現代の作家たち、そしてSNS の「いいね」やインプレッションに心揺れる一般庶民の私たちも同じだ。
嫉妬を回避に使うか、創造の火薬に使うか——その選択が、人生という物語を分岐させるのは、昔も今も変わらない。