秀吉に早くから仕えた毛利勝信を翻弄した「信用」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第73回
■「信用」で出世し、「信用」で領地を失った毛利勝信

天正15年(1587年)に勝信が入城した小倉城(福岡県北九州市小倉北区)。後に、関ヶ原合戦の功労で入国した細川忠興によって1602年に本格的に築城が始まり、約7年をかけて築城された。
毛利勝信(もうりかつのぶ)は、大坂の陣で獅子奮迅の活躍を見せた嫡子勝永が知られる一方で、関ヶ原の戦いで改易された無銘の武将のひとりだと思われます。
しかし、勝信は豊臣秀吉に早くから仕えた古参家臣として、馬廻衆(うままわりしゅう)から黄母衣衆(きぼろしゅう)に選ばれており、天下統一における戦いの数々に参加しています。九州征伐などでの活躍により、現在の福岡県の小倉に領地を与えられており、豊臣譜代の中でも相応の存在感を示しています。
こうして勝信が遂げた出世と、その後の没落には「信用」が関係していると思われます。
■「信用」とは?
辞書によると「信用」とは「主にその人の実績や成果を元に評価する事」を指します。つまり、過去に積み上げてきたものに対して与えられた信任になります。
一方でよく混同される「信頼」は「その人の人柄や態度、立ち振る舞いなど人間性を評価する事」を指します。こちらは、今後の保証がされていない状態でも安心して任せる事を指します。
これまでの結果など、信じるための条件を伴うのが「信用」で、人間性など感覚的でほぼ無条件に信じるのが「信頼」です。
勝信は秀吉からの「信用」を得て出世をしていくものの、またそれが原因で領地を失うことになります。
■毛利勝信の事績
勝信は長く森吉成(もりよしなり)を名乗っており、尾張国の森家の一族が出自と言われていますが、諸説あり確かではありません。秀吉に早い段階から仕えていたようで、戸田勝隆(とだかつたか)や青木一重(おあきかずしげ)などと共に、黄母衣衆に任じられたと言われています。こちらも諸説ありますが、古参家臣であったことは間違いないようです。
九州征伐や肥後国人一揆での活躍が認められ、要衝の地と言われる豊前国(ぶぜんのくに)小倉6万石を拝領しています。この時期に、秀吉からの命令によって森から毛利に改めています。
文禄の役では四番隊の隊長として、南九州勢の島津家や秋月家を率いて渡海し、第二次晋州城攻防戦(しんしゅうじょうこうぼうせん)で活躍しています。慶長の役で、嫡子勝永とともに三番隊として遠征し、黄石山城攻略や第一次蔚山城の戦いで戦功を挙げたとされています。
関ヶ原の戦いでは、西軍として戦い、勝永が伏見城攻略に加わる一方で、勝信は自領の小倉城にて東軍勢力に備えていました。
戦後は改易され、土佐国にて1611年に死去しています。
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