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秀吉に早くから仕えた毛利勝信を翻弄した「信用」

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第73回

■豊臣政権内で「信用」を集めた古参家臣

 

 勝信は秀吉にとっては、数少ない譜代家臣であり、最古参とも言える存在でした。秀吉の家臣団の先輩として、特に山内一豊(やまうちかずとよ)たちの面倒を見てきたようです。

 

 先述のように、九州の玄関口である豊前国小倉6万石を得ていますが、後に家康の外曾孫にあたる小笠原家が、この要衝の地に配置されています。

 

 小笠原家が九州の諸侯の監視役だったと言われるように、勝信も秀吉から同様の役割を期待されていたと思われます。

 

 文禄の役では一番隊の小西行長(こにしゆきなが)や二番隊の加藤清正(かとうきよまさ)たちのように、豊臣政権の譜代大名として四番隊の指揮官を任されて出陣していました。慶長の役では、最重要拠点となる釜山の守備は立花宗茂(たちばなむねしげ)ではなく、豊臣政権から「信用」が厚い勝信が適任であると報告をされています。第一次蔚山城の戦いでは、加藤清正を救援し、西生浦倭城の守備に就くなど、遠征の終盤まで活躍しています。

 

■関ヶ原の戦いでの「信用」による判断ミス

 

 秀吉死後の派閥争いの中で、勝信は奉行派として、関ヶ原の戦いに臨んでいます。嫡子の勝永を京へ派遣する一方で、自身は領地に残り小倉城の守備についていました。

 

 伏見城の戦いで、勝永とともに出陣していた家老毛利信友が討死したことによって、家中に亀裂が生まれることになります。

 

 東軍の黒田孝高(くろだよしたか)の攻撃に対応するため、勝信は亡くなった信友の香春岳城(かわらだけじょう)に、自身の息子を入れて守備を固めようとしました。しかし、信友の遺族や家臣たちは、この対応に反発し、黒田家に香春岳城を明け渡して寝返ってしまいます。勝信に「信用」されていないと感じていたのかもしれません。その結果、毛利家は窮地に立たされることになります。

 

 関ヶ原の戦いの本戦での西軍の敗北もあり、勝信は黒田孝高の説得を受けて、剃髪し小倉城を開城します。

 

 古くから付き合いがある孝高の交渉力を「信用」し、家康へのとりなしを期待したと言われていますが、その約束は果たされずに改易となりました。

 

 勝信親子は、山内一豊の土佐藩にて、家老並みの1,000石を与えられ、大高坂城(後の高知城)の一角に居も与えられています。その後、城の普請を手伝うなど、死去するまで不自由の少ない生活を送ったようです。

 

■他者を「信用」する事の難しさ

 

 勝信は古参家臣としての経験と実績により、秀吉から高く「信用」され、豊臣政権内でも一定の立場を得ていました。しかし、関ヶ原の戦いのような利害が複雑に交差する状況において、他者に対する「信用」の判断ミスから失領に繋がっています。

 

 現代でも組織内で「信用」を集める事が得意である一方で、他者への「信用」の取り扱いで失敗する例は多々あります。

 

 もし、勝信が信友の遺族を日頃から評価するかたちで「信用」し、長期戦に持ち込めていれば、九州情勢に変化があったかもしれません。また、とりなしを家康の「信用」を得ている人物に依頼できていれば、改易は免れたのかもしれません。

 

 ちなみに、同じく西軍に参加し、黒田家の攻撃で開城した豊後国日隈の毛利高政は、藤堂高虎のとりなしにより結果的に本領安堵を得ています。

 

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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