家康と三成を見限った木下勝俊の「価値観」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第72回
■木下勝俊が守ろうとした「価値観」

高台寺円徳院(京都府京都市東山区下河原町)に立つ歌仙堂。歌仙堂は、木下勝俊を祀る霊廟として建てられた。
木下勝俊(きのしたかつとし)は秀吉の親類衆でありながらも、関ヶ原の戦いではどちらにも味方せずに、伏見城の守備を放棄した軟弱な大名というイメージが強いと思います。
しかし、若いころから九州征伐をはじめとした秀吉の天下統一に関する合戦に従軍しており、戦歴は他の武将に引けを取るものではありませんでした。
一方で和歌の才能にすぐれており、名護屋城への下向中に紀行文『九州道之記』を書き、死後には『うをのうた合』『けだ物の歌合』『むしの哥合』などの歌集もまとめられています。
勝俊は秀吉の親類衆でありながらも、地位や立場に囚われず、最終的には自分の「価値観」に従って行動します。
■「価値観」とは?
「価値観」とは辞書等によると「物事を判断する際の基準や、何に価値を見いだすかを示す考え方のこと」とされています。「価値観」は個人の信念や優先順位、行動指針であり、人生観や仕事観に影響を与えると言われています。
現代では、多様性を受け入れる風潮が強まってきたことで、「価値観」の違いを尊重するようになってきていますが、過去には大きな争いの火種になることもありました。勝俊は立身出世を争う時代において、自分の「価値観」を最終的に優先していきます。
■木下家の事績
木下は豊臣秀吉が信長に仕えたころに名乗った苗字であるため、尾張を出自とすると言われていますが、その多くは不明です。
秀吉の正室高台院の兄の家定が仕えて、親類衆として木下を名乗るようになります。その庶長子として生まれたのが勝俊です。なお、弟に秀吉の養子となった小早川秀秋がいます。
ただし、勝俊の出生には、武田元信(たけだもとのぶ)と京極竜子(きょうごくたつこ)の嫡子元義という異説があります。これは勝俊の娘が、家康5男の武田信吉の正室になっていることと関係があるのかもしれません。そして、姫路城代を務める父家定とは別に、若くして播磨国龍野6万石を拝領しています。
勝俊は正室に森可成(もりよしなり)の娘である宝泉院を迎えています。1586年から始まる九州征伐に参加し、1589年の小田原征伐にも従軍しています。そして文禄の役では、1500人の軍勢を率いて九州へ下り、名護屋城に駐留しています。
その後、若狭国8万石を得ると、若狭少将と呼ばれるようになります。1600年の徳川家康が主導する会津征伐では、鳥居元忠(とりいもとただ)たちとともに伏見城の守備を任されています。
しかし、石田三成(いしだみつなり)たち奉行派が挙兵すると、勝俊は戦うことなく伏見城から離脱してしまいます。
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