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稀代の算術家、太平洋を渡る! 航海中、アメリカ軍人に絶賛された日本人小野友五郎とは

日本海軍誕生の軌跡【第1回】


日本初の遣米使節に、笠間藩士の小野友五郎という人物が測量方兼運用方(航海長)として参加していた。小野は類まれな算術(数学)の才を持ち、西洋文明への理解力も並外れていたことから、幕臣ではなかったにもかかわらず、この国家プロジェクトの参加メンバーに選ばれたのである。彼は日本海軍創設に、欠かせないピースとなった。


咸臨丸は幕府がオランダから購入した西洋式軍艦で、元は日本を意味するオランダ語のヤーパン号であった。日本初のスクリュー船で、推進機は出入港時に使われた。外洋では3本のマストを使い、主に帆走していた。

 「計算のやり方は決まっている。ただそれに従えば、正しい答えはおのずと導き出される」

 

 六分儀を手にして甲板に立つ小野友五郎は、逸る気持ちを抑えるように、自分に言い聞かせていた。アメリカへと向かう咸臨丸に、測量方兼運用方として乗り組んだ小野は、船の現在地を正確に割り出し、正しい航路に導くという重要な使命を帯びていたのである。

 

 その目的は安永5年6月19日(1858年7月29日)に締結された「日米修好通商条約」の批准書交換のため、日本から送られる使節団の護衛であった。使節団一行はアメリカから派遣された軍艦で太平洋を渡るが、万が一の事態に備え、使節団一行とは別に護衛名目でもう1隻、別の艦船を派遣することになったのである。

 

 選ばれたのが咸臨丸で、乗り組んだ士官は海軍伝習所出身者で固められていた。その乗組員として、小野友五郎も選抜されたのだ。

 

 

 

笠間藩士にすぎなかった小野友五郎は、その卓越した算学の才、測量術により咸臨丸に乗り込んだブルック大尉をはじめとするアメリカ人船員たちを感嘆させた。帰国後、将軍徳川家茂に拝謁し、幕臣に取り立てられる。

 小野はもともと笠間(現在の茨城県笠間市)藩士で、同藩の算学者・甲斐駒蔵に入門し、和算を修める。江戸詰めとなった折には著名な和算家の長谷川弘(ひろむ)の道場に入門し、さらに算学を極めた。

 

 嘉永5年(1852)に江戸幕府天文方へ出仕となり、知遇を得た江川英龍(ひでたつ・太郎左衛門)から砲術や軍学、さらにオランダ語を学ぶ。そしてオランダの航海術書を翻訳し、4巻の『渡海新編』にまとめ幕府に提出した。やがてオランダ語に精通していることと、測量や航海術に通じていることが評価され、安政2年(1855)8月に、老中阿部正弘からの直命で長崎の海軍伝習所への入所を命じられたのである。

 

 正史に任命された新見正興(しんみまさおき)、副使の村垣範正(のりまさ)、それに目付の小栗忠順(おぐりただまさ・2027年大河ドラマ主人公)ら遣米使節団一行は、安政7年1月18日(1860年2月9日)、品川沖に停泊していたアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り込んだ。それから4日間停泊した後、1月22日にサンフランシスコを目指し出航する。

ポーハタン号に乗艦し、日米修好通商条約の批准書交換のためにアメリカに渡った使節団の代表。左から副使の村垣範正、正史の新見正興、目付の小栗忠順。アメリカ側から、目付はスパイではないかと疑われた。

 一方、咸臨丸は安政7年1月19日(2月10日)、浦賀を出港。最初の日は好天に恵まれていたが、陸地が見えなくなる頃から海が荒れてきて、船に慣れていない乗組員のほとんどが、船酔いに悩まされることとなった。

 

 なかでも重症だったのが、艦長格の勝麟太郎(海舟)であった。海が荒れ始めると船酔いが酷かった勝は、自室に閉じこもったきりとなった。それを聞いた小野は<出港前は大口を叩いていたのに>と思った。ふたりは長崎海軍伝習所で同期だったのだ。

江戸本所(東京都墨田区)の旗本小普請組という、わずか41石取りの家に生まれた勝麟太郎(海舟)は、その才覚により幕府最後の陸軍総裁にまで昇りつめた。長崎海軍伝習所は1期から3期まで教監を兼ね所属。

 咸臨丸にはアメリカ海軍士官のジョン・ブルック大尉と、その部下11名が同乗することとなった。彼らの乗艦フェニモア・クーパー号は横浜港に寄港中、台風に遭遇し座礁。船体の損傷が激しく修理不能だったため、アメリカに帰るための代わりの船を探していた。

 

 それを知った咸臨丸の司令官で軍艦奉行の木村摂津守喜毅(せっつのかみよしたけ)が乗艦を強く要請したのだ。ところが勝は最初、彼らの乗艦を拒んだのである。その理由は<日本人だけで太平洋を横断しなければ意味がない>というものだった。小野はそれを思い出していたのである。

 

 だが咸臨丸の往路は荒天の連続で、最初のうち外洋に慣れていない日本人水夫(かこ)は戦力にならず、荒天下での操艦のほとんどは、アメリカ人が担っていたのだ。そんな状況下でも小野が担っていた測量は実に正確無比であった。長崎海軍伝習所で高等数学もマスターしていた小野は、天体観測(天測)の結果から、自艦の位置を割り出す天文航法を使い、咸臨丸がいる位置を正確に割り出し、ブルックを驚かせている。

アナポリス海軍兵学校の最初の卒業者のひとりであるジョン・マーサー・ブルック。海洋探査の専門家でもあり、フェニモア・クーパー号の艦長として太平洋を調査横断。横浜滞在中に嵐で乗艦が大破。咸臨丸で帰国を果たす。

 こうして日米乗組員の協力により、咸臨丸は無事に太平洋横断航海に成功。1860年3月18日にサンフランシスコに到着した。ブルックはこの航海を細かく記録していて、その中で小野のことを「優れた航海士である」と、最大級の賛辞を贈っている。

 その小野はサンフランシスコ滞在中、ほとんどの時間をメーア島海軍造船所に通い、造船技術をつぶさに見て回っている。この経験が、国産軍艦建造として花開くのである。

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野田 伊豆守のだ いずのかみ

1960年生まれ、東京都出身。日本大学藝術学部卒業後、出版社勤務を経てフリーライター・フリー編集者に。歴史、旅行、鉄道、アウトドアなどの分野を中心に雑誌、書籍で活躍。主な著書に、『語り継ぎたい戦争の真実 太平洋戦争のすべて』(サンエイ新書)、『旧街道を歩く』(交通新聞社)、『各駅停車の旅』(交通タイムス社)など。最新刊は『蒸気機関車大図鑑』(小学館)。

 

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