×
日本史
世界史
連載
ニュース
エンタメ
誌面連動企画
歴史人Kids
動画

“田安の種まき”に利用され「幻の御台所」となった種姫 松平定信の妹姫が辿った薄幸な人生


NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』の第10回「『青楼美人』の見る夢は」では、蔦屋重三郎(演:横浜流星)と瀬川(演:小芝風花)の悲しくも美しい別離のシーンが描かれた一方、幕府側の不穏な駆け引きも注目だった。田安賢丸(演:寺田 心)の白河藩への養子入りが禍根を残すなか、賢丸は養母である宝蓮院(演:花總まり)と共に妹・種姫(演:小田愛結)をゆくゆくは家基(演:奥 智哉)へ輿入れさせようと画策する。


 

■将軍の養女となりながらも悲運の人生をおくった種姫

 

 種姫は明和2年(1765)に江戸の田安屋敷で田安宗武の七女として誕生した。生母は定信と同じ香詮院である。

 

 安永4年(1775)、11歳の時に、第10代将軍・家治の養女として、江戸城大奥に迎えられることになった。しかしこの養子入りには謎も多く、将軍家の養女になったにも関わらず他家と縁組の話が進んでいたという形跡がないという。従って、種姫を将軍継嗣の家基の正室にしようと考えていたのでは? という説もある。

 

 とはいえ、3代将軍・家光以降は将軍の正室として五摂家か宮家の姫を迎えるのが慣例となっていた。後に11代将軍・家斉の正室が薩摩藩の姫であることが問題になったが、これは家斉が次期将軍と定められる前に婚約がなされていたからという特例であることを踏まえると、御三卿・田安家の種姫を御台所に、というのが家治の真意だったかどうかは何とも言えない。

 

 一方、田安家としては、血筋からして家基にもしものことがあった場合の「次期将軍」として期待していた定信が白河藩へ養子に入った時点で、「田安の将軍誕生」という悲願が叶わなくなった。ところが、種姫が家基の御台所になり、しかも男児を授かればその子はいずれ将軍の地位に就く。田安家の血を引く将軍が誕生し、定信も将軍の伯父として権力を握れる……という筋書きを思い描いた可能性は高い。

 

 しかし、種姫が家基の御台所になることはなかった。種姫が大奥に入った4年後の安永8年(1779)、家基が鷹狩りの帰路で体調不良を訴え、江戸城に戻った後急逝したからである。この時家基は18歳、種姫は15歳だった。

 

 毒殺説も囁かれた突然の死から3年後の天明2年(1782)、18歳になった種姫と紀州藩主の嫡男・岩千代(後の治宝)との縁組がまとまった。岩千代は12歳で、種姫より6歳年少だった。

 

 その後、種姫にとって養父の立場にあった家治が亡くなり、第11代将軍・家斉の世になり、さらには実兄松平定信が老中になった。そんな時代の変革期を経て、天明7年(1787)にようやく紀州藩の赤坂上屋敷の御守殿に入り、正式に婚姻と相成った。種姫は23歳、治宝は17歳になっていた。

 

 養女とはいえ、将軍家の姫君である。8代将軍・吉宗の養女だった利根姫以来、50年ぶりの将軍家の姫の輿入れとあって、婚礼行列は大層豪華なものになった。もちろん、その分紀州藩の金銭的負担がのしかかったことは言うまでもない。

 

 結婚生活が種姫にとって幸せなものであったかどうかはわからない。ただ、残念ながら2人の間に子はいなかったし(後に治宝と側室の間には子が生まれている)、大奥から付き従ってきた女中たちは紀州藩邸での暮らしに不満をもらして家中で反感をかっていたともいう。

 

そして、兄である定信が失脚して老中を解任された翌年の寛政6年(1794)、種姫は30歳という若さでこの世を去った。死後は紀州徳川家の菩提寺にということで、住み慣れた江戸から遠く離れた和歌山の長保寺に葬られたのだった。

徳川種姫婚礼行列図/国立国会図書館蔵

KEYWORDS:

過去記事

歴史人編集部れきしじんへんしゅうぶ

最新号案内

『歴史人』2025年10月号

新・古代史!卑弥呼と邪馬台国スペシャル

邪馬台国の場所は畿内か北部九州か? 論争が続く邪馬台国や卑弥呼の謎は、日本史最大のミステリーとされている。今号では、古代史専門の歴史学者たちに支持する説を伺い、最新の知見を伝えていく。