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花魁、新造……遊女は階級で待遇に格差あり!人気がでなければほとんどが大部屋暮らし【『べらぼう』を史実で読む】

蔦屋重三郎の真実#04

 

■個室を持っていたのは「花魁」だけで他は雑居

 

『鶴泉樓之図』
文久3年(1863)作の落合芳幾筆『鶴泉樓』は、妓楼「鶴泉楼」の華やかな遊女たちを、花魁を中心に描く豪華絢爛な1作。(東京都立中央図書館特別文庫室蔵)

 

 元吉原以来、遊女は最高位の太夫や格子など、細かい階級に厳格に分けられ、揚代が異なるのはもちろん、待遇にも大きな格差があった。

 

 千束村に移転後の宝暦年間(1751~1764)、太夫などの称号は廃止され、遊女の階級は大きくふたつに分けられた。

 

・花魁(おいらん/呼出し昼三、昼三、座敷持、部屋持)

・新造(しんぞう/振袖新造・番頭新造)

・禿(かむろ/遊女見習いで、しつけを学びながら雑用に従事した)

 

 江戸時代だけで吉原は250年の歴史があるが、後半の約100年間は遊女と言えば花魁と新造だったことになろう。時代小説や映画・テレビの時代劇で描かれる吉原はほとんどが、この花魁と新造がいた時代である。

 

 上級遊女である花魁は個室を与えられ、中でも呼出し昼三は客用の豪華な寝室と居室を持ち、仲の町で花魁道中を行った。

 

 新造には個室はなく、大部屋に雑居だった。禿ももちろん雑居である。

 

 遊女はその階級によって、待遇にも歴然たる差があったことになろう。

 

■性病と不健康な生活により20代で死亡する者が多かった

 

 ほとんどの遊女は自分の意志で遊女になったわけではなく、たいていは貧しい親が女の子を女衒(ぜげん)に売ったのである。もちろん、表向きは下女奉公などの名目で証文を取り交わしたが、事実上の「身売り」だった。

 

 こうして10 歳前後で女衒によって妓楼に連れてこられた女の子は禿となり、遊女としてのしつけを受けた。そして、15歳前後で新造となって客を取り始める。人気が出れば花魁に出世したが、新造のままで終わる者が多かった。

 

 中には、良家の17〜18歳の娘が事情があって身売りし、いきなり花魁になることもあったが、これらは楼主の判断である。

 

 吉原は1日に2度の営業だった。

 

・昼見世 九ツ〜七ツ(正午頃〜午後四時頃)

・夜見世 暮六ツ(午後六時頃)〜

 

 遊女は四ツ(午前十時頃)に起床し、入浴と朝食をすませたあと、昼見世の準備をしながらも、自由時間を楽しんだ。

 

 昼見世が終わると、遅い昼食を取った。

 

 夜見世が始まると、張見世に出たり、客の相手をしたりで、夕食は手早く台所ですませた。客によって、終わりは際限がない。

 

 吉原の遊女は「年季は最長10年、27歳まで」という原則があったが、年季が終わる前に、20代で死亡する遊女が少なくなかった。

 

 ごくまれに、年季中に「身請け」といって、客に請け出される幸運な者もいた。

 

監修・文/永井義男

 

『歴史人』2025年2月号『蔦屋重三郎の真実』より

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