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織田・豊臣・徳川家臣団のMVPは誰だ!? 主君からの評価と貢献度から徹底考察!

「歴史人」こぼれ話・第48回


織田、 豊臣、 徳川家臣団において最も主君に貢献した重臣を挙げるとしたら誰になるだろうか。もちろん、評価の方法によっても異なるから、これを客観的に判断することは難しい。ここでは、独断と偏見で、それぞれ一人を選んでいこう。


■信長が評価し、家臣からも頼りにされた柴田勝家

 

 織田信長の重臣としては、譜代の林秀貞・柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興・佐久間信盛のほか、新参の豊臣秀吉・明智光秀らが挙げられる。ただし、林秀貞や佐久間信盛は、石山合戦後に追放されていることからして、信長自身、貢献していないとみていたのだろう。

 

 信長自身がもっとも高く評価していたのは、明智光秀であったと思われるが、本能寺の変で信長を討ってしまった以上、とても貢献したとは言い難い。豊臣秀吉も、信長の死後には織田家の実権を握ってはいるものの、信長の存命中における立場は、必ずしも高いものではなかった。とすると、必然的に柴田勝家・丹羽長秀・池田恒興の3人に絞られるが、このなかでは柴田勝家の貢献度が最も高かったのではなかろうか。

 

 柴田勝家は織田家譜代の家柄の出身で、もともとは信長の弟信勝に仕えていた。信勝が信長と戦った際には信勝に従うが、再度の陰謀を信長に密告し、以来、信長に仕えている。信長からは頼りにされていたようで、近江の平定にあたっては、長光寺城におかれている。

 

 この際におきた六角氏との野洲川の戦いでは、長光寺城の水瓶をすべて割って出撃したとの伝承から「瓶割り柴田」の異名をとるが、どうやらこれは後世の付会らしい。とはいえ、そのように人口に膾炙するだけの活躍があったことは確かだろう。優れた軍略家であると同時に、民政にも理解があった勝家は、織田家臣団の筆頭とみなされており、本能寺の変で主君を討った明智光秀も、柴田勝家との決戦を想定していたようである。

 

 清州会議を招集したといわれるのも、勝家が織田家中において、主導的な立場にあったことが大きい。結果的に、光秀を討った秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで敗れることにはなるものの、勝家に従った信長の遺臣も多かったことからしても家臣団から頼りにされていた様子がうかがえる。

 

■献身的に兄を支え続けた弟・秀長

 

 豊臣秀吉は、小者という最下級の武家奉公人から信長に仕官しており、譜代の家臣というものが存在しなかった。そのため、譜代の家臣といえるのは、せいぜい一族ぐらいしかいない。もっとも近い存在だったのは弟の秀長で、のちには秀吉の母大政所の姻戚にあたる福島正則や加藤清正が子飼いの家臣として名をはせることになる。

 

 また、妻の実兄にあたる木下家定や、妻の妹の夫にあたる浅野長政も、よく秀吉を支えた。秀吉が出世してからは、軍師として知られる黒田官兵衛・竹中半兵衛が家臣となり、古くからの知り合いである前田利家も、秀吉に臣従した。晩年に五大老のひとりとして秀吉に貢献したのは前田利家であるが、秀吉の天下統一を支えたのは、なんといっても弟の秀長であろう。

 

 秀長の父は、秀吉と同じ弥右衛門とみられているが、秀吉の継父となった竹阿弥との説もあり、はっきりとしない。戦国時代には兄弟の対立が散見されるが、秀長は側近として兄秀吉をよく支えた。ときには秀吉の代わりに大将として戦場に赴くこともあったから、秀吉の分身であったといっても過言ではない。事実、秀吉による四国攻めや九州攻めで中心的な役割を果たしたのも秀長である。

 

 また、秀吉の側近として、諸大名との仲介も担っていた。直接、秀吉に言えないような訴えも秀長であれば訴えやすいということもあったようで、秀吉と諸大名との橋渡しをしている。そんな秀長が早世してから、秀次事件や文禄・慶長の役など豊臣政権を崩壊させる出来事がおきており、もし秀長が長生きしていれば、豊臣家が滅びることもなかった可能性が高い。

 

■乱世の生き残り戦略に貢献した本多正信

 

 徳川家康の家臣団は、江戸時代になると、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政の四天王や、平岩親吉、大久保忠世、鳥居元忠、渡辺守綱らを加えた徳川十六神将に代表されるようになっている。しかし、四天王にしても十六神将にしても、江戸時代における評価にすぎない。事実、家康のもとを去った石川数正、子の本多正純が失脚した本多正信などは、四天王はおろか十六神将にも選ばれていない。

 

 家康は、天下人となった織田信長や豊臣秀吉との関係を円滑にしていたからこそ、戦国の乱世を生き残ることができたのだった。こうした家康の生き残り戦略に最も貢献したのは、本多正信だったろう。

 

 本多正信は、若かりし頃から家康に仕えていたが、三河一向一揆に際しては、熱心な浄土真宗門徒ということもあり、父とともに一揆方について、主君家康に弓を引いてしまう。そのため、一時は家康のもとを出奔するが、のちに帰参が認められ、「帰り新参」として再び家康に仕えることになった。

 

 本能寺の変後からは、家康に意見を求められるようになり、家康も正信の意見をそのまま受け入れていたようである。この判断が正しかったからこそ、家康は戦国最後の勝利者になりえたのである。正信は、戦場での活躍はほとんどないに等しいにもかかわらず、家康への貢献度は随一と言ってよいのではなかろうか。

『徳川二十将図』/東京国立博物館蔵 出典:ColBase

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小和田泰経おわだ やすつね

大河ドラマ『麒麟がくる』では資料提供を担当。主な著書・監修書に『鬼を切る日本の名刀』(エイムック)、『タテ割り日本史〈5〉戦争の日本史』(講談社)、『図解日本の城・城合戦』(西東社)、『天空の城を行く』(平凡社新書)など多数ある。

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